Nanea me nā hoaloha Ma ka lihi kai aʻo Kona Nō Kona ke kai malino Nō Hualālai kou makua Nō Hualālai kou makua
見あげるほどりっぱで(kau i ka nu’u)幸せにみちている(piha hau’oli)と歌われるLaimana家のいえ……どんな家だったのか以上に、Laimanaという人物のことがまずは気になります。 この歌が作られたのは1960年代のことですが、歌の舞台は19世紀のハワイ島、Laimanaとハワイ語で呼ばれているのはDavid Belden Lyman(1803-1884)です。米国コネチカット州生まれの宣教師だった彼がハワイの地を訪れたのは1832年のことで、ABCFMによってハワイに派遣された初期の宣教師の一人だったようです*。まず、Honoluluでハワイ語を学んだLymanは、その後、ハワイ島Hiloの教会で布教活動を行うとともに、1836年に寮制の学校を設立します。最初はわらぶきの小屋だったようですが、1838年にその学校の生徒たちの手によって木造の施設およびLyman家のいえが建てられます。これらの建造物は、ハワイでも最初期に建てられたニューイングランド様式のもので、当時はHiloの街に宿泊施設もなかったことから、旅人を迎える場所としても機能していたようです。Lymanの家がりっぱだと歌われ、多くの友人たちが訪れくつろいでいるとされるのは、おそらくそのあたりのことが描写されているものと思われます。
E o* mai kou inoa Ka home aʻo Laimana Home kau i ka nuʻu Home piha hauʻoli Home piha hauʻoli
生徒たちによって作られたLymanの家および学舎は、教会とともに1853年に火災で焼失し(放火とも伝えられる)、さらに大きく建て替えられることになります。現在、「Lyman House Memorial Museum」(1931開館)として残されているのは、1838年に建てられたLymanの家を復元したものです。 Lymanは1851年に帰化し、ハワイの合衆国併合に反対したひとでもありました。宣教師としてハワイのひとびとに新しい世界観を伝えることを命としたLymanですが、ハワイのハワイらしさを愛するひとでもあったようです。しかも、Lymanの墓碑には、彼の名前のハワイ語表記である「Laimana」と記されていると聞くと、ちょっと考えさせられるんですね**。ふたつの文化のはざまにあって、その隔たりのなかになにかをみてしまった人物―Lymanは、そんな微妙なポジションを生きたひとではないかと、わたしなりに想像しています。
Composed by Lei Collins
*:The American Board of Commissioners for Foreign Missions(ABCFM)は、1810年に米国で設立された、宣教師の海外派遣を目的とする組織。 **:1853年にやむなく英語での授業が導入されるまでは、ハワイ語を守りたいという彼の意思のもとで、ハワイ語による教育が行われていたようです。
コメント
jazztama
フラをはじめて8ヶ月の初心者です。
Po La'ila'iの曲の訳詞を検索していてこちらに来ました。
訳詞だけではなく、背景も教えてくださり、また訳詞も
すごく柔らかい文章で気に入ってしまいました。
大阪でmeleを読む会があるそうですね。
まったくの初心者でも参加できますか?
都合がつけば伺ってみたく思いました。
素敵なサイトを発見できてとてもうれしいです。
頑張ってください。
2013/08/29 URL 編集
隙間のりりー
週1回のペースで更新していますので、これからもよろしくお願いします。
meleを読む会、ぜひいらしてください。
不定期ですが、木曜日の7時から、新大阪でやっています。
meleのハワイ語を可能な限り理解することをめざしています。文法なども説明しながら進めますので、予備知識はなくても問題ないと思います。
2013/08/30 URL 編集