Hi’ilaweは、ハワイ島北西部、Waipio渓谷にある滝の名前です。Waipioの土地は、古代には「lua o milu」(死後の世界への入り口)と呼ばれ、王族の墓やheiau(宗教的な儀式などが行われた所)があるような特別な場所だったようです。もしかすると、Hi’ilaweの滝も、この世とあの世の境目にあって、その両者をつなぐような物語を生み出すイマジネーションそのものであるような存在だったのかも……そんなことを考えつつ「Ku*maka ka ‘ikena ia* Hi’ilawe」(見るひと誰もが心を奪われるHi’ilaweの眺め)*という冒頭の歌詞を読むと、ハワイのひとなら「そうそう、あのことだよね~」とわかるような、場所にはりついたイメージがあるのかなぁと思ってみたり……そのあたりのことを知識で埋めることには、正直、限界を感じますが、ともかく、歌詞の随所にちりばめられているmeleを理解するための手がかりになりそうなことばをたどってみたいと思います。 「私は逃れてきました。あのWaipioのお喋りな鳥たちから」といきなり登場する「私」は、「山にかかる霧」であり、「両親に愛され」、「先祖から大切なものを受け継いでいる」**とされます。そして、それに続く「Punaからやってきて、Hi’ilaweの滝にとどまっている香り」という歌詞から、その「私」が、Punaからやってきたことがわかるのですが……Punaといえば、Waipioからみてハワイ島の真反対側にある場所です。遠路はるばる旅をしてきた「私」っていったい何者?……よく歌われる歌詞に含まれているのはここまでの内容なのですが、実は「私」についての記述はまだあって、「私」は「Ha'iwahine」と「Ha'inakolo」に抱かれているとされます。そして、このふたつの言葉は、いずれもハワイの神話に登場するものだったりするんですね。歌の後半部分には、「私」が誰かを愛する様子も歌われていてはいますが、たんにPunaからWaipioにやってきた誰かの恋物語というのではなく、その背景には、昔からさまざまに言い伝えられてきた物語のイメージがあるのかもしれません。ちなみに、「Ha'iwahine」はWaimeaに住む「shark aumakua」(サメの姿をした神的存在)で、「wahine」からおそらく女神だと思われ、「荒波にも負けない私」という歌詞に続いていきます。「Ha'inakolo」のほうは、Waipioに住む女性とそこから遠く離れた場所に住む男性が結ばれるところからはじまるストーリーに登場する女性の名前で、Ha'inakolo自身もWaipioに住みながら、別の場所に住む男性と結ばれます。 洋書も含めいくつかの文献を読んでみましたが、『Hi’ilawe』に描かれている「私」はいずれも女性と解釈されています。ですが、「Ha'iwahine」と「Ha'inakolo」が女性であることを考えると、その二人に抱かれている私は男性と考えるほうが、もしかすると自然ではないかという気がしています。「Ha'inakolo」の物語のなかで、遠くからWaipioにやってくるのは男性ですし……。歌のなかで「私」をたとえることばとして用いられている「霧」も、ハワイの神話のなかでは、大地である女性をうるおす男性的なものの象徴として登場することばです。「知性に満ちあふれ、どんな荒波だってものともしない」と歌われ、かなり積極的で、あくまでも自力で突き進んでいく、そんな印象を受ける記述も、なんとなく男性的なものを思わせます。ですが、本当のところはわかりません。しかも、「au(私)」と言われるだけで、歌詞には性別をはっきりと示すことばは含まれていない……もっとも、このことは、実はどのハワイアンソングにも言えることだったりするんですね。 現在歌われている『Hi’ilawe』が、愛する対象をもとめる女性の歌であると解釈されていることは事実ですが、もしかすると、「Ha'iwahine」や「Ha'inakolo」との関係、そして、どんな荒波にも負けない船乗りのように語られる部分が抜け落ちることで、もともと『Hi’ilawe』に含まれていた意味内容が変化したのでしょうか?……あくまでも「仮説」ですが。
*:文字通りの意味は「Hi’ilaweを見ることが(いま)起きている」。 **:「lei」には「結びつき、つながり」という意味が含まれていることから、「he lei 'a*'i* na ke kupuna」の「na ke kupuna」(先祖による)の部分を、「先祖から受け継いだ」と解釈してみました。
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