ごく限られたことばの連なりが、まるで奇跡のように世界の美しさのすべて包み込んでしまった……そんな印象のある『Ke Ao Nani』。手仕事をしながら、あるいは小さな子どもをあやしながらふいに口ずさんだような、そして、なによりもことばを覚え始めた子どもの数え歌を思わせる絶妙なリズム感もあって、いちど耳にしただけでその素朴さが逆に記憶に残る、不思議な存在感のある歌だと思います。 うんと高く(i luna la*)舞い上がったかと思うと、こんどはずんずん下のほうへ(i lalo lua)、そして陸側へ上がって(i uka la*)緑生い茂る風景をながめ、続いてずっと遠く、魚たちが住まう大海原を思う(i kai la*)……いまいるここから遠く離れた場所へ向かう「la*」に含まれる語感が、この世界のすみずみにまで思いをはせる誰かのまなざし、あるいは自由な想像力を思わせ、まるで鳥になった夢のなかで宙を自在に行き来しているような、不思議な浮遊感さえ感じられます*。そんな自由なこころのまなざしに映る、この美しき世界(ke ao nani)……。 ただし、ハワイ語の「ao」には、「世界」と訳したのではみえにくい含みがあります。というのも、「ao」は「po*」(闇、夜)と対になることばで、たんに空間を表しているのではないからです。それは、太陽に照らされてかがやく場所であり、水の循環によって雲が生まれ、やがて雨が降って大地がうるおされ**、あらゆる生命がはぐくまれる場所でもある……あるいは、「ao」と「po*」が、それぞれ「昼」と「夜」を区別するだけのことばではないことも重要かもしれません。そう、ハワイの創世を語る神話『Kumulipo』において、この二つのことばが記す境目は、この世界が人間にとっての〈世界〉としての形を持つはじまりを-たとえば、「luna」(上)、「lalo」(下)、「uka」(陸)、「kai」(海)と語られるような、確固たる輪郭をもった秩序ある世界のはじまりでもあるのです。 人間の力がおよばないという意味では、神的なものの領域にあるといえる「po*」と、いわばその闇を打ち破るべく、人間の現れとともにはじまる「ao」。ですが、「po*」と「ao」は時系列で語れるものではないことも、心にとどめておく必要があるかもしれません。昼と夜が交互に繰り返されるものとしてあるように、「po*」と「ao」も、いずれも片方を欠いてはそれ単独では存在し得ないわけですから……そんな、手をたずさえて歩む性格の異なる双子のようなところが、「po*」と「ao」にはあるように思います。 テクノロジーによって、闇を思いのままに照らすことがあたりまえになっている現代人は、いわば「po*」の存在を―決して人間の意のままにはならないものの存在を、忘れているようなところがあると思います。そして、人間の理性が想定可能な範囲で世界をとらえようとしてしまう―「po*」を忘却しつつやり過ごす手だてを、おとなになるために身につけてしまうのかもしれませんね。それでも、いや、だからこそ、夜がこわかったり、月が自分についてくることが不思議だった子どものころの感性を、ときには思い起こしてもいいんじゃないかと思う……そんな思いで、最後の「He inoa no na* kamali'i」を、「子どもの思いをもち続けるすべてのひとへ」と訳しておきたいと思います。
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