Ku'i e ka lono Pelekane ehe Ho'olohe ke ku'ini o Palani ehe
Kala*kauaが王位についた1874年当時、ハワイと最も関係が深かった国といえばなんといっても米国で、彼が王に選ばれた選挙戦は、米国派の支持を取り付けたKala*kauaと、英国寄りのEmma女王との戦いでもありました。そんなことを考えあわせると、そうでなくても唐突な印象のあるPelekane(英国)とPalani(仏国)が、いっそう謎に思えてくるような……。早わかり的に説明すると、どうもここでは、Kala*kauaがヨーロッパの主要国を訪れたときのこと(1881年)が歌われているようなのですが、この二国も関わってくる外交事情をみる前に、当時のハワイの政治的・社会的状況を少し振り返ってみたいと思います。 この外遊の際、Kala*kaua王は、ヨーロッパ以外にも米国、およびアジア各国を訪れています。その一番の目的は、ネイティブハワイアンの激減によって確保できなくなっていた、農場労働者を獲得することだったとか……そう、いわゆる移民政策ですね****。当時のハワイでは、米国資本によるサトウキビの生産が主要な産業になっていて、米国人の利益を守ることが、ハワイの財政にも深く関わっていたという事情があったようです*****。というわけで、日系人をはじめアジアにルーツのあるひとが多いハワイなわけですが、日本を訪問することは、Kala*kaua王にとっては別の意味もあったようです。そう、まだ5歳だった彼の姪、Ka'iulaniと、日本の皇族との縁組みを明治天皇に申し入れたという話は結構有名ですね。残念ながら実現はしませんが、このエピソードは、Kala*kaua王がハワイ王朝の行く末を案じていたあかしではないかと思ったりします。そんな彼の胸中を知ってか知らずかはわかりませんが、ハワイと深い利害関係にあった米国政府は、Kala*kaua王の諸外国への訪問、とくにヨーロッパ各国を訪れることを警戒し、Kala*kaua王に対する干渉とも妨害ともとれる行動に出ます。Kala*kaua王は、苦しいハワイの財政状況を立て直すために、ひそかに島の売却を考えているのではないか……と、どうもそんなふうに疑ったらしいんですね。というわけで、米国政府は、ヨーロッパの主要国に向けて、「米国はハワイがいかなる国にも土地を売ることを許さない」と圧力をかけたようです。一方、Kala*kaua王は、ヨーロッパ諸国への国土売却を否定し、マスコミからの取材にも「ヨーロッパ各国の考えは、ハワイの主権を守る方向で一致している」と答えたとされています。にもかかわらず、「Kala*kaua王のヨーロッパ訪問の目的は、ハワイの売却にあることは公然の秘密のようなもの」(The New York Times)といった報道もなされていて、当時のハワイの微妙な政治状況もうかがわれます。 はたしてKala*kaua王は、米国が疑ったように島の売却を考えていたのだろうか……いまとなってはわかりませんが、ハワイの財政状況が決して良くなかったことからすると、少なくとも財政支援を取り付けようとした可能性はありそうです。ですが、それも残念ながらかなわなかった……そんなわけでKala*kaua王は、「ヨーロッパの国々はハワイの主権を認めている」としか語れなかったのではないか、なんてことを思ってしまうんですね。そして、そんな状況を受けての英国(Pelekane)と仏国の女王(ku'ini o Palani)という歌詞なのであれば、単にKala*kaua王はヨーロッパでもよく知られているといったことが歌われているのではないようにも思えてきます。たとえば、政治的にあやうい状況にあっても、ともかく一国の王としてふるまったKala*kaua王への賛辞、あるいは彼を誇らしく思う、ハワイのひとびとの気持ちが込められているのではないかと……。
参考文献 Budnick R: Stolen kingdom-an American conspiracy. Honolulu, Aloha Press, 1992, pp8-55 Lowe RH: David Kala*kaua. Honolulu, Kamehameha School Press, 1999, pp1-59 Kane HK: Capt. George Vancouver-the forgotten explorer. Hawai’i chronicles-island history from the pages of Honolulu Magazine. Dye B ed., Honolulu, University of Hawai’i Press, 1996, pp43-51
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