Kalani Ka*wika

Kalani Ka*wika






 (ハワイには)Ka*wikaがいる。
 数ある花々のなかでも、最高の王である彼が。

 Eia no* Ka*wika ehe
 Ka heke a'o na* pua ehe

 東の空に輝く(太陽のような)存在。
 彼こそがハワイを輝かしく照らしてくれるそのひとなのです。

 Ka uwila ma ka hikina ehe
 Ma*lamalama Hawai'i ehe

 「(ハワイには)Ka*wikaがいるんだ」(eia no* Ka*wika)と語るインパクトの強さに、思わず歌の世界に引き込まれてしまう『Kalani Ka*wika』*。Kalani Ka*wikaといえば、ハワイ王朝末期の王、David Kala*kaua(1836-1891)のことですが、彼が花々(na* pua)、つまり歴代の王たちのなかでも抜きん出た存在(ka heke)であると歌われるのはなぜなのか**……そのあたりを感じ取るために、Kala*kauaが王位につくまでの王朝の歴史を、ざっとたどってみたいと思います。
 まず、ハワイ王朝のはじまりともいえる、Kamehameha一世によるハワイの統一が成し遂げられたのが1810年のこと。そして、Kamehameha一世の死後、彼の息子(Liholiho)がKamehameha二世として後を継ぎますが、在位5年、27歳と若くして亡くなってしまいます。彼の弟のKamehameha三世(Kauikeaouli)は、在位期間こそ30年と長かったものの、子どもをもうけないまま41歳で死去。その後を継いだKamehameha四世(Alexander Liholiho)も享年29歳と短命で、ひとり息子のAlbert王子はわずか4歳でこの世を去ります。そして、Kamehameha五世(四世の兄のLot Kapua*iwa)が、またまた跡継ぎを残さず43歳で亡くなったのが1872年。その後、選挙によって王が選ばれるようになりますが、このとき第六代目の王となったLunalilo(Kamehameha五世のいとこ)も、在位わずか1年、39歳で亡くなってしまうんですね。そんな、いわば王朝の存続が危ぶまれる状況にあって、第七代目の王に選ばれたのが、Kala*kauaそのひとでした***。
 歌では、東の空に(ma ka hikina)輝く太陽のようだと語られるKala*kaua王。東の空から昇る太陽といえば、ハワイでは伝統的に、あらたな命の誕生、あるいは未来そのものの象徴でもあります。そんなふうにイメージをふくらませてみると、彼に王朝のこれからを託したひとびとの、熱い思いが伝わってくるようにも感じられます。
 
 彼のメッセージは英国にも伝わった。
 フランスの女王にも聞き届けられた(のだが……)。

 Ku'i e ka lono Pelekane ehe
 Ho'olohe ke ku'ini o Palani ehe

 Kala*kauaが王位についた1874年当時、ハワイと最も関係が深かった国といえばなんといっても米国で、彼が王に選ばれた選挙戦は、米国派の支持を取り付けたKala*kauaと、英国寄りのEmma女王との戦いでもありました。そんなことを考えあわせると、そうでなくても唐突な印象のあるPelekane(英国)とPalani(仏国)が、いっそう謎に思えてくるような……。早わかり的に説明すると、どうもここでは、Kala*kauaがヨーロッパの主要国を訪れたときのこと(1881年)が歌われているようなのですが、この二国も関わってくる外交事情をみる前に、当時のハワイの政治的・社会的状況を少し振り返ってみたいと思います。
 この外遊の際、Kala*kaua王は、ヨーロッパ以外にも米国、およびアジア各国を訪れています。その一番の目的は、ネイティブハワイアンの激減によって確保できなくなっていた、農場労働者を獲得することだったとか……そう、いわゆる移民政策ですね****。当時のハワイでは、米国資本によるサトウキビの生産が主要な産業になっていて、米国人の利益を守ることが、ハワイの財政にも深く関わっていたという事情があったようです*****。というわけで、日系人をはじめアジアにルーツのあるひとが多いハワイなわけですが、日本を訪問することは、Kala*kaua王にとっては別の意味もあったようです。そう、まだ5歳だった彼の姪、Ka'iulaniと、日本の皇族との縁組みを明治天皇に申し入れたという話は結構有名ですね。残念ながら実現はしませんが、このエピソードは、Kala*kaua王がハワイ王朝の行く末を案じていたあかしではないかと思ったりします。そんな彼の胸中を知ってか知らずかはわかりませんが、ハワイと深い利害関係にあった米国政府は、Kala*kaua王の諸外国への訪問、とくにヨーロッパ各国を訪れることを警戒し、Kala*kaua王に対する干渉とも妨害ともとれる行動に出ます。Kala*kaua王は、苦しいハワイの財政状況を立て直すために、ひそかに島の売却を考えているのではないか……と、どうもそんなふうに疑ったらしいんですね。というわけで、米国政府は、ヨーロッパの主要国に向けて、「米国はハワイがいかなる国にも土地を売ることを許さない」と圧力をかけたようです。一方、Kala*kaua王は、ヨーロッパ諸国への国土売却を否定し、マスコミからの取材にも「ヨーロッパ各国の考えは、ハワイの主権を守る方向で一致している」と答えたとされています。にもかかわらず、「Kala*kaua王のヨーロッパ訪問の目的は、ハワイの売却にあることは公然の秘密のようなもの」(The New York Times)といった報道もなされていて、当時のハワイの微妙な政治状況もうかがわれます。
 はたしてKala*kaua王は、米国が疑ったように島の売却を考えていたのだろうか……いまとなってはわかりませんが、ハワイの財政状況が決して良くなかったことからすると、少なくとも財政支援を取り付けようとした可能性はありそうです。ですが、それも残念ながらかなわなかった……そんなわけでKala*kaua王は、「ヨーロッパの国々はハワイの主権を認めている」としか語れなかったのではないか、なんてことを思ってしまうんですね。そして、そんな状況を受けての英国(Pelekane)と仏国の女王(ku'ini o Palani)という歌詞なのであれば、単にKala*kaua王はヨーロッパでもよく知られているといったことが歌われているのではないようにも思えてきます。たとえば、政治的にあやうい状況にあっても、ともかく一国の王としてふるまったKala*kaua王への賛辞、あるいは彼を誇らしく思う、ハワイのひとびとの気持ちが込められているのではないかと……。

 彼が高貴な存在であるのはどうしてなのですか?
 それは彼がKapa'akeaを父に持つからです。

 Na wai e ka pua i luna ehe
 Kapa'akea he makua ehe

 ここではずばり、Kala*kauaの血筋について語られています。あのKapa'akeaが彼の父なのですよ、と……Kamehameha王家の血筋が途絶え、選挙で選ばれたKala*kauaですが、家系図をたどると、傍系とはいえ王族の血筋を引いていることがわかります。もっとも、Kala*kauaの出自については、実の両親だけではなくha*nai(養父母)の家系も重要で、彼はMaui島の首領にルーツのある家で育ったようです。そして、彼の名前「ka-la*-kaua」(戦いの日)には、彼を養子にしたいと願う二人の女性が、縁組みをめぐって争ったというエピソードが含まれていたりもします。幼い頃から、将来を期待されていた子どもだったのかもしれませんね。

 偉大な王の物語を、もう一度こころに響かせてほしい。
 そのひとの名、Kalani Ka*wikaにこの歌を捧げます。

 Ha'ina 'ia mai ka puana la
 Kalani Ka*wika he inoa la

 こんなふうに、ごく限られたことばで、Kala*kaua王という人物があらゆる角度から語られている『Kalani Ka*wika』。当時の時代背景も考え合わせながら読むと、ハワイが合衆国併合に向かう過程とともに生きた王ともいえそうなKala*kauaなのですが、実は彼だけでなく、ハワイの王朝の歴史そのものが、諸外国との関係や軋轢抜きには語れないようなところがあったりします。
 たとえば、ハワイを統一するにあたり、Kamehameha一世は欧米諸国から手に入れた新しい武器を用いています。しかも、Kamehameha一世が英国から贈られた国旗を掲げて戦っていたという話もありますし、ハワイ統一後、ハワイ王朝が英国との同盟関係を模索していた時期もあったようです******。そこまで関係があったのになぜ?と思いますが、その後のハワイは、英国からの圧力を受け続け、仏国からも理不尽な要求を突きつけられるなど、外交的には非常に厳しくあやうい状況が続きます。そんななかで、Kamehameha三世は米国に助けを求めていますが、四世、五世の時代にはむしろ英国寄り。しかも、彼らが死去した数年後には、なぜか米国寄りのKala*kauaが王になっていた……こんなふうにたどるだけでも、当時のハワイの相当な混乱状況がうかがえますが、この激動の時代は、欧米化する以前のハワイのハワイらしさみたいなものが、どんどん失われていった時期でもありました。そんななかで、ハワイ固有の文化、たとえばhulaや音楽、古来のスポーツなどを守ろうとしたのがKala*kaua王でもあるわけですが、ハワイのアメリカ化を目指す議会勢力の反発などもあって、文化振興のために予算を獲得するのもままならない、そんな状況もあったようです。
 経済成長のために米国を味方に付けたものの、そのために政治的な主導権を失ってしまった……そう考えると、いったいKala*kaua王はだれのための王だったのか?といいたくなるようなところもあります。その一方で、いまでもハワイの島ごとに、その象徴として名を残している首領たちもいるわけですね。Hawai'i島のKeawe、Maui島のPi‘ilani、O’ahu島のKa*kuhihewa、Kaua’i島のManokalanipo*……おおむね15~16世紀に生きたとされる彼らの名が、いまも島の固有名に近い仕方で用いられたりすること自体が驚きではありますが、それだけに、ハワイのひとびとにとっては特別な意味のある時代であり王たちであったのではないかと思われます。封建的な社会構造のもとで、必ずしもいいことばかりではなかったとは思われますが、なによりもハワイのハワイらしさみたいなものが十二分にはぐくまれたという意味では、おだやかで幸福な時代だったのかもしれない……と想像しています。

by J. Kealoha

*:「Eia~」ではじまる文章は、なにかが存在することが強く語られるときの表現。
**:「Pua」(花)は、比喩的表現ではひと、とくにある土地に根をおろして生きるひとびとをあらわすことが多いことばですが、ここでは歴代の王たちを指していると解釈しています。
***:第一回目の選挙でLunaliloと王位を争ったのがKala*kauaでした。
****:統計によると、18世紀末からの100年あまりの間に、ネイティブハワイアンの人口は30万人から2万5千人にまで減っていたとされています。
*****:米国の圧力もあって、関税面で米国を優遇するなどの政策もとられていました。
******:結局、当時の英国の事情もあって実現しなかったようです。

参考文献
Budnick R: Stolen kingdom-an American conspiracy. Honolulu, Aloha Press, 1992, pp8-55
Lowe RH: David Kala*kaua. Honolulu, Kamehameha School Press, 1999, pp1-59
Kane HK: Capt. George Vancouver-the forgotten explorer. Hawai’i chronicles-island history from the pages of Honolulu Magazine. Dye B ed., Honolulu, University of Hawai’i Press, 1996, pp43-51



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隙間のりりー

フラダンサー&ミュージシャンを応援するハワイ語講師。
メレの世界を深く知るためのハワイ語を、わかりやすく解説します。