Emmalani女王(1836-1885)のMaui島訪問の旅(1882年)について歌われているという『Kaleleona*lani』。ハワイの旗(ka hae Hawai’i)がその訪れを知らせてくれる(e ha’i mai ana)とありますが、女王を迎える側は、遠く沖合に目を凝らしながら、いまかいまかとその到着を待っていたのでしょうか。それで、女王をひと目見たいと心待ちにしていたひとびとの目には、水平線の際のところに(i ka ‘ili kai)見えはじめた旗らしきものが、一層大きくはためいて(ha*li’i lua)見えたりしたのかも……なんて想像を膨らませてみましたが、(読み進めるとわかるように)このmeleは女王に同行する側から作られたものらしく、あくまでも語り手は訪問者側。だとすると、Maui島のひとたちの歓迎ムードというよりも、これぞ「ハワイの象徴(旗)」(ka hae Hawai’i)であるEmma女王(ke Kuini Emalani)をお連れしている!という、女王一行の気負いがあらわれていると考えるほうが自然かもしれません。
「あなたの名前は(kou inoa)」とあらためて語られる女王の名「Kaleleona*lani」(ka-lele-o-na*lani)は、「高貴なひとびとの」(o-na*lani)「飛翔」(ka-lele)という意味で、Emalani女王の息子(Albert王子)、夫のKamehameha四世(Alexander Liholiho)と、女王にとってかけがえのない二人が、立て続けにあの世へ旅立ってしまったことをあらわしています*。つまり、この「Kaleleona*lani」という名は、ひとり息子に先立たれたうえに、未亡人として生きることになった彼女の人生を象徴しているわけですね。悲しみに打ちひしがれた時期もあったに違いありませんが、夫の死後、Kamehameha五世(Lot Kapua*iwa)、Kamehameha六世(William Charles Lunalilo)と短命の王が続いた政治的混迷期には、Kala*kauaと王位を争うなど(1874年)、改名を境にその生き方が変わったともいえるEmma女王。結局、当時、ハワイの政治・経済を牛耳っていた米国派に推されたKala*kauaが王となりますが、このバースでは、なぜか「あなた(Kaleleonalani)はハワイのひとびとが選んだ特別なお方」(he hiwahiwa ‘oe na ka la*hui)と歌われています。そしてなにより、このhui(繰り返し)では、Emma女王にお供するひとたちが(na ma*kou)、「こころからお仕えするかた」(he milimili)として選んだのは彼女であると語られるときに、語りかけるひとびとも含めた「私たち」(ka*kou)ではなく、含まない「私たち」(ma*kou)が用いられていることに注目すべきかもしれません**。そう、訪れる側と迎える側との間に、なんとなく目に見えない隔たりがあるように感じられるんですね。それが、旅人とそれを迎える側との間にあるごく一般的なものなのか、あるいはそれ以上の含みがあるのかどうかはわかりませんが、この数行にみられることばの使い分けに、Emma女王をめぐる微妙な政治的状況があらわれているといったことも、あり得ない話ではないように思われます。
その場所には(o laila)見るに値しないもの(mea nani ‘ole)はなにひとつない(‘a’ohe)……なんだかものすごい絶景を目にしたことを予感させる表現です。ちなみに、ここで「その美しさが見られる」(‘ike ‘ia e* ka nani)と歌われるKahuluiは、Maui島の北側の海沿い、Maui島がひょうたん型にくびれたように見えるちょうどくぼみのところに位置するまち。沖の方から島に近づくにつれて、その背後にそびえる山々もぐいぐい迫ってみえ始め、あぁ、やっと着いたんだなぁ……って感じだったのかもしれません。そんな長旅のあとの安堵の気持ちは、波にただようlehuaの花に出迎えられたという、夢のように詩的な表現からも感じられるように思われます。 こうしてたどってみると、いよいよMaui島に到着!というときの思いがつづられる一方で、上陸してからのことはまったく語られていないことがわかります。しかも、Emma女王一行の旅の目的もわからなかったりしますが、Mauiへの旅が、彼女にとってどんな意味があったのかを多少なりとも感じとるために、王族としての彼女の立ち位置も含めて、当時のハワイの政治的状況を確認しておきたいと思います。 Kala*kauaが王位を獲得したのが1874年のこと。一方、選挙の直後には暴動も起こったほどの支持を集めていたEmma女王ですが、「ハワイの民が選んだ特別なかた」(he hiwahiwa 'oe na ka la*hui)と歌われてもいるように、彼女こそがハワイの「Mo*’i*」(王)であると考えるひとびとが、選挙後数年を経ても少なからず存在したことがうかがえます。また、このmeleでは「na ka la*hui」で示されている、Emmaでなければと思い定めていたひとびとの多くは、ハワイのネイティブたち(ka*naka maoli)だったといいます。Emmaがネイティブたちに好まれたのは、第一にKamehameha一世の弟、Keli'imaika'iが彼女の母方の祖父にあたるという血筋によるところが大きかったようですが、政治的信条においても、EmmaとKala*kauaとでは決定的な違いがありました。そう、夫、Kamehameha四世が王だった時代から、宗教的にも政治的にも反米国を貫いてきたEmmaに対して、最終的には米国寄りの立場を選択したのがKala*kauaだったからです***。 そうしてKala*kaua王のもと、政治、経済および軍事面でも、米国優遇の政策が勢いづくこととなりますが、そんななか、ハワイの島々のなかでも、最も農地等の開発が進み移民も多かったのが、このmeleの舞台であるMaui島でした。王政への忠誠心みたいなものも薄かったであろう移民が急増し、その一方ですっかりネイティブハワイアンが減ってしまったMaui島。それでも、というかだからこそ、「(Emma女王が)あなたがたにとってお仕えするべきお方」(he lani ‘o ia la no ‘oukou)なんてことも、つい言いたくなってしまう……そんな残念な場面が、少なからずあったのかもしれません。 関税や土地利用の面でサトウキビ産業の振興が目指される一方で、ハワイの自然やネイティブのひとびとの生活はないがしろにされたと言わざるを得ない時代。しかも、Kamehameha王朝始まって以来、ネイティブに支持されない人物が王になってしまったというねじれた状況にあって、政治の舞台から退いてもなお、ネイティブたちに支持されたEmma女王……そんな当時の状況に思いを馳せながら、彼女を大切に思うことで、ネイティブのひとびとが守りたかったものを感じられそうな気もしてきた、『Kaleleona*lani』なのでした。
参考文献 1)Osorio JK: Dismembering lahui-a history of the Hawaiian nation to 1887. Honolulu, University of Hawaii Press, 2002, pp145-173 2)Liliuokalani: Hawai’i's story by Hawai’i's queen. Honolulu, Mutual Publishing, 1990, pp35-51
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