「どうしたらいいんでしょう?ぼくは永遠の命がほしいのです」……いくら相手がイエスでも、あまりに唐突過ぎやしないか?!と思ってしまう問いかけですが、実はこの歌、新約聖書の「マタイによる福音書」の一部分が参照されていて*、この青年が登場する前段階にイエスの一連の行いがあることから、それらにこころ動かされての発言だと考えられます。少し聖書の記述をたどってみると……そのときイエスは、彼に救いを求めるひとびとに取り囲まれていて、(彼を問答で試そうとする)パリサイ人に婚姻についての教えを語ったりしています。そうこうするうちに、イエスによる祝福を求めて幼い子どもを連れたひとびとも集まってくるのですが、なぜか彼の弟子たちは彼らを追い返そうとします。一方、当のイエスは「そんなことをしてはいけない、彼ら幼子こそが天国にふさわしい存在なのだから」みたいなことを言い、彼らの上に手をおいてからその場を立ち去ったとされます。そして、問題の青年が登場するのが、まさにこのタイミングなんですね。歌詞をみると、青年がイエスに問いかけているのに「青年は答える」(pane mai e* ka ‘o*pio)となっていて、イエスの一連の行動をみた青年が、彼なりに思うところがあってイエスにことばを投げかけた(と解釈されている)ためではないかと思われます。「私はどうしたら救われますか?」みたいな、なんともぶしつけな質問ではありますが、おそらくそういわずにはいられない思いを抱えていたんですね。
自分にはなにかが足りない、ちゃんと教えを守っているのに満たされないこの虚しさは、きっと良き行いが足りないからに違いない……。そんなふうに、自分のいたらなさに気付いている時点で、彼は自分が求めている「救い」の入り口に立っていたはず。でも、あぁ惜しいな(minamina)と思ってしまって、彼の財産を(i kona mau waiwai)捨てられなかったんですね。大きな荷物をもったままでは、神の国への入り口をくぐり抜けることはできないのに……。問題になっているのは財産(ka waiwai)ですが、金銭や土地、家屋といった物質的なもの以上に、それらに執着するこころのありようこそが問われているのかもしれない……と思ったりもします。 それにしても、なんで聖書の内容が、しかもハワイ語で歌われてるの?!って感じですが、そもそもハワイ語のアルファベットによる表記をシステム化したのは、1820年ごろからハワイにやってくるようになった米国の宣教師たち。しかも、彼らが最初に取り組んだ大きな仕事のひとつが聖書のハワイ語訳(1830年代末に完成)だったわけですから、歌詞のもとになるハワイ語はいくらでもあったともいえます。現に聖書の教えを伝えるハワイ語の冊子が多く印刷されたころは、ハワイ語の讃美歌が盛んに作られ歌われた時代でもありました。 ハワイのひとびとに、彼ら自身のことばで書かれた聖書を届けること―それが、最初期に海をわたった宣教師たちのミッションでした。つまり、欧米化が進むとともに失われていったハワイ語の歴史のはじまりのところに、ハワイ語だからこそ伝えられることがあると考えていたひとたちがいたわけですね。なんとも皮肉な話ではありますが、外来の信仰が語られているうえに、100年以上も前に作られたこの歌が、長い時を経てもなお歌い継がれていること自体が驚きではあります。ともかくハワイ語が、ハワイのひとびとの価値観を知る重要な手がかりのひとつであることは確かだといえるかもしれませんが**……。
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