‘Ekolu mea nui ma ka honua ‘O ka mana’o ‘i’o , ka mana’olana A me ke aloha, ke aloha ka i ‘oi a’e Po*maika’i na* mea a pau
幼い子どもに大切なことを諭すときの、静かにたたみかけるような雰囲気を感じる『‘Ekolu Mea Nui』。新約聖書に含まれるパウロの書簡集『コリント人への手紙』(第一部13章)の、愛の大切さについて語られる部分が参照されていて、もともとはとある教会のソングコンテストのために作られた、1925年頃の楽曲のようです。聖書の該当部分では、この地上にある価値のうち、もっとも大切なのは信仰、希望、愛であり、なかでもすぐれてよきものは愛である……そんな内容が語られているのですが、その結論にいたるまでをざっくりたどってみたいと思います。 まず、あらゆることを知っていて話すことができても、愛がなければただのうるさい音だし、山を動かすほどの強い信念も、愛がないならなんの価値もない……なんてところから、その愛にまつわる語りは始まります。「愛」と呼ばれるものは最高に価値あるものであり、それを欠いては、なんにせよ取るに足らないものに過ぎない……多少強引なところは、とりあえず納得するとしてさらに読み進めると、自分の財産を貧しいひとに分け与えてさえも、愛がなければ無意味だ……なんてことも例として挙げられていきます。いったい、なにが問題なんだろう?!と思ってしまいますが、その行為を自慢したり見返りを求めるなど、結局は私的な利益を追求するところにとどまっているうちは、自分がどんな犠牲になることをいとわない態度をみせてもダメ。そう、「わたし」というところから逃れられない限り、最高に価値あるところにはたどり着けないということなんですね。それは形あるものだけではなくて、知識や能力といった神から与えられたもの(いわゆる「天賦の才」)についてもいえることで、まるで自分の顔を鏡で見続けるように、自分が手にしているもので満足しているうちは、ありがたい「神」の姿はみえないと……。ひらたく言えば、自分が知ることができるのは宇宙の真理のほんの一部分に過ぎないことを悟ってはじめてみえてくるものがある、ということだと思われますが、そうして得られる「神」を求め続けることが信仰であり、神への愛である……つまり、もっとも価値あると語られている「愛」とは、「神」と置き換えてもいいものなんですね。
E na* ma*kua, na* keiki Na* mamo a Iuda me ‘Epelaima E pa’a ka mana’o i ka pono i ‘oi a’e Po*maika’i na* mea a pau
聖書になじみのない者にとっては、なにこれ?って感じですが、「Iuda」と「‘Epelaima」 (Ephraim、エフライム)は、ともに旧約聖書の『創世記』に登場する人物の名前で、彼らの子孫である部族や彼らの国の名として使われることば。つまり、さかのぼると聖書に記された神との契約にはじまりがある(とされる)ひとびとの子孫(na* mamo)に向けて、しっかりした心持ちで生きるよう(e pa’a ka mana’o)諭しているわけですね。よりよき正しさを(i ka pono i ‘oi a’e)見失わないように生きれば、みな神に祝福されますよと(po*maika’i na* mea a pau)……。どう考えても、ユダヤの地に起源があるとは思えないハワイのひとびとが、そのあたりをどう理屈づけてアイデンティティに取り込んだのか想像もつきませんが、なにより「どこの話やねん?」と言いたくなる内容に、なんとなく釈然としないものを感じてしまう『‘Ekolu Mea Nui』。キリスト教的な神への「愛」を日本語で理解するときの困難に近いものが、それをハワイ語で「ke aloha」と置き換えたときにもあるのではないかと思ったりもしながら、ハワイのキリスト教化とは、ハワイのネイティブとしての起源というか拠り所を失うことにほかならなかったことを、あらためて考えさせられた一曲でした。
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