Nani ka la*, maika'i Me ku'u po*maika'i Nani ka hui 'ana Ma ke*ia ha*la*wai
なにか大きなものに抱かれる喜びや、そのなにかに対する称賛の気持ちが高らかに歌い上げられる『Nani A Maika'i』。美しいものはよきものでもある(nani a maika'i)ことを確信させるほどに「太陽が美しかった」(nani ka la*)のは、自らが立つこの大地(地平線)で(ma ke*ia ha*la*wai)、太陽との出合い(ka hui 'ana)を祝福そのものとして受け止めた、稀有なひとときだったようです。
hui Nani, Nani Nani na* hana maika'i Nani na* 'o*lelo a Iesu Me kona lokomaika'i
先のバースで、太陽の美しさを表現していた「nani」ですが、ここではイエス(Iesu)がその「よき行いの数々」(na* hana maika'i)ゆえに「nani」であるとされていて、このことばが、単なる視覚的な美しさにとどまらないことがうかがわれます。あるいは、神が万物を創造したのがこの世界であるがゆえに、それは神の理(ことわり)でもって美しくあらわれ、そのことを人間に伝えてくれるIesuのことばもまた、自ずとすばらしさに満ちている(nani na* 'o*lelo a Iesu)……といったところでしょうか。いずれにせよ、「美しい」とか「すばらしい」といっただけでは、なにかが抜け落ちてしまう気がしてなりませんが、なにをもって「nani」とするかが問われていると考えると、その近づきがたさにこそ意味があるようにも思えてきます。
Nani na* kumu a'o Me ku'u 'oli nei Nani na* a'o 'ana Ku* i ka pololei
「(その)教えが原理とするところがすばらしい」(nani na* kumu a'o)ことを信じ、それを大切な祈りのことばとして携え生きる(me ku'u 'oli nei)……このバースでは、そうした学びがとどこおりなく営まれる(nani na* a'o 'ana)ところに、正しい仕方であらわれる(ku* i ka pololei)なにものかについて語られているようです。「Nani」(すばらしい)から信じるのか、信じるからすばらしいものになるのかはわかりませんが、そうして待つことで届けられるもの、待つ限りであるといえるものを求める気持ちが、生きるエネルギそのものであるかのようにこちらに迫ってくる……そんな静かな力強さを感じる『Nani A Maika'i』。ここで語られている「美しくよきもの」(nani a maika'i)は、イエスのことばや行いが讃えられていることからすると、なにより限りある人間が永遠を求める切実さと深くかかわるものではないかと思われます。ですが、それは決して選ばれた(イエスのような)ひとに訪れる特別なものではなく、この歌の冒頭でも描かれた日常のそこかしこに、たとえば太陽が最後の力をふりしぼるひとときや、大地が呼吸を止める凪の瞬間にふいにあらわれるものでもあることを、心にとどめておきたいと思います。
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