Kanaka Waiolina




 ぼくら二人、いなか道を行ったんだ。
 そう、KohalaからKukuiha'eleまでの道のりをね。
 そうして、あるひとをたずねたのさ。
 静かに暮らすあのひとを。

 Hele ma*ua i ke ala kuaehu la*,
 Mai Kohala a Kukuiha'ele,
 'Imi ma*ua i ke ka*ne,
 Noho 'ana i ka ma*lie.

 のどかな田舎町を旅する二人の、軽やかで楽しげな足取りが目に浮かぶ『Kanaka Waiolina』。「KohalaからKukuiha'eleまで」(mai Kohala a Kukuiha'ele)の行程とあるので、North KohalaからKohala山(5,480ft)の南側の裾野をぐるっと回り、WaimeaからWaipi'o渓谷を越えて、海辺の町、Kukuiha'eleを目指したものと思われます。さらにこのバースには、その旅の目的が「ある男性に会いに行く」('imi ma*ua i ke ka*ne)ことで、その旅が誰かと二人連れだった(ma*ua)あたりのことが語られています。いったい誰と?そして、わざわざ会いにいった男性は何者だったのか……といきなり謎だらけですが、繰り返されるhuiの部分では、「静かに日々を送る」(noho 'ana i ka ma*lie)そのひとの輪郭が、おぼろげながら語られていきます。

 あなたはそう、フィドル弾きとして知られたひと。
 そのalohaあふれる生き方に、われわれは頭が下がる思いがする。
 白い靄が心地よいWaipi'o出身(のあなた)、
 Sam Li'aにこの歌を捧げるよ。

 Kaulana 'oe e Kanaka Waiolina la,
 Mahalo ma*kou i kou aloha,
 No Waipi'o i ka noe,
 No Sam Li'a he inoa.

 「これはSam Li'aに捧げる歌」(he mele inoa no Sam Li'a)といきなり名前が出てきましたが、そのひとに会いにいったのは、フィドル奏者(Kanaka Waiolina)である彼が、「あなたには感謝している」(mahalo ma*kou)といいたくなる、そんななにかがあるからのようです。そして次のバースでは、Sam Li'aなる人物のことが、また別の角度から語られていきます。

 あなたが作った歌の多さ(は感嘆に値する)。
 Hawai'iのひとびとの歌をいっぱいね。
 HiilaweのHui Waianuheaと(の音楽活動には)、
 偉大なチーフ、Kalaniana'oleのために歌うなんてこともあったという。

 Nui kou mau mele,
 No ka po'e Hawai'i,
 Me ka Hui Waianuhea a'o Hiilawe la,
 Mele 'ana i ka lani nui,
 'O Kalaniana'ole

 「あなたが作った歌はたくさんある」(nui kou mau mele)と、その精力的な音楽活動がうかがえるSam Li'a。ここで彼自身のことをまとめてみると……Sam Li'a Kalainaina Jr(1881-1975)はWaipi'o生まれ、当時、Waipi'oに暮らすひとびとの多くがそうだったように、彼もkaloを育てる農家の出身。Maui島のLahainaluna Schoolで教育を受け、4年間はHiloの出版社でタイピストとして働きますが、22歳のときに高齢の父親を世話するために戻ってからは、終生、Waipi'oで暮らしました。農業を営み、Parker Ranchやサトウキビ農場などでも働きながらバンドリーダーとして活躍。そして、いろんな楽器を演奏するなかでも彼が得意としたのが、歌のタイトルにもなっているwaiolina(ヴァイオリン、フィドル)でした*。演奏だけでなく、「ハワイのひとびとのために」(no ka po'e Hawai'i)たくさんの楽曲を作った彼ですが、レコーディングされたのは『Heha Waipi'o』(1904)だけ**。というのも、作品の多くは特定のhulaのグループだけに知られていたり、プレゼントされた家族のなかだけで伝えられたりと、彼の楽曲が多くのひとに届けられる機会がなかったという事情があるようです。そんな華やかさとは無縁のSamですが、「あの偉大なおかた」(ka lani nui)と表現されているKu*hio王子(「Kalaniana'ole」は彼のハワイアンネーム)のことを歌うという、栄えある機会に恵まれたことがここでは語られています***。このエピソードを少しご紹介すると……Sam Li'aが、政治家として活躍していたPrince Ku*hio*(1871-1922)に出会ったのは、1918年のこと。合衆国議会に親書を携えて赴くことになったKu*hio*が、それに先立ち、視察のためにハワイ各地を訪問していたときのことでした。その思いがけない出会いの場で、Ku*hio*はSam Li'aをはじめ地元のひとびとと気さくに語り合ったようで、そのときのことをSamは『Elele No Hawai'i Aloha I Wakinekona』(ハワイの使節団はワシントンに向かう)という歌にしたためました。そして、Ku*hio*がWaipi'oを後にする前にSamがの自身のバンドでこの歌を披露し、「ハワイの民衆の代表としてメインランドに向かうKu*hio*を讃えるべく、Ku*hio*の好きな花でleiを作り彼を讃えようと」ハワイの島々に向けて呼びかけるような、そんなメッセージを歌に託しました。ハワイ王朝転覆のニュースが届くのに数日かかったという、そんなWaipi'oの地に暮らすSamにとって、Prince Ku*hio*との交流は生涯忘れ得ぬものになったはずですし、Ku*hio*にとっても、実際に多くのネイティブの生活にふれた経験は、Sam達との出会いも含めて、記憶の奥深くに刻まれたに違いありません****。

 もう一度この歌の大切なところを心に響かせて。
 HiilaweのHui Waianuhea(ってすごかったんだよ)
 まさにWaipi'oの地のほこりって感じで。
 Liloaが暮らしたことで名高いまち(にふさわしいよね)。

 Haina 'ia mai ana ka puana
 O ka Hui Waianuhea a'o Hi'ilawe la,
 Ha'aheo a'o Waipi'o
 Ka nohona a'o Liloa.

 Hi'ilaweの滝で有名な地元のバンド、Hui Waianuheaで活躍したSam Li'a。というわけでWaipi'oでは一目置かれていたものの、多くのひとが彼の名を知っているという意味では決して有名人ではなかったSam*****。そんな、平凡で静かな暮らしを送る彼*****にスポットをあてたのが、Eddie Kamaeでした。O'ahu島に暮らす彼がSamのことを知ったのは1970年のこと。ソロでもSons of Hawai'iのバンドリーダーとしても活躍していたEddieですが、ミュージシャンとして活動するだけでなく、初期のハワイアンミュージックの起源(オリジン)をリサーチすべく取り組んでもいました。そんな彼に、ぜひSam Li'aに会いにいくようにと勧めたのがMary Kawena Pukui*******。アポもとらずに彼の家に行くと、ネクタイ姿のSamが、待ちかまえるようにベランダの椅子に座っていて、「君が来ることを心待ちにしていた」と大歓迎してくれたといいます(Eddieがそのうち訪ねることだけは、本人も知らないうちにPukuiが手紙で連絡していた)。そして、古いハワイアンミュージックの歌本を取り出し、Samに会いに来た目的のひとつは、そこにあるメロディのわからない楽曲を、彼の力を借りて蘇らせることだと伝えます。そうして何曲か確認したあと、Samがいきなり、「車はあるか?」といい出し、Eddieのジープで出かけることに……。そうしてWaipi’o(文字通りの意味は「曲がりくねった流れ」)をたどり、古代の伝説的なチーフ'Umi-a-Li*loaゆかりの地、Paka'alanaを案内され、30年前の津波で流されるまでは存在した村の話、いまも伝統的な灌漑が行われるtaroの水田……といった、地元のひとしか知らないWaipi’oの姿を、SamはEddieに伝えてくれたようです。おそらく、伝統的なハワイアンソングの世界観が、それぞれの作者が踏みしめている大地と切り離せないことを伝えたかったのではないか……なんてことが想像されますが、この旅のあと、EddieはSamにいきなりハワイ語の歌詞をわたされ、曲をつけるようにいわれた……おそらく、その日に体験したWaipi’oをどのくらい感じ取れたかい?みたいな課題を与えられたわけですね。こうしてSamは、いきなりEddieのメンターかつ先生的存在になります。高齢のために固くなったSamの指では、もうフィドルを弾くことはかないませんでしたが、歌作りだけは続けていた彼の楽曲をEddieが演奏し、Eddieが持ってきた古い歌本から、Samが記憶をたどって楽曲を蘇らせる……といった二人の関係がしばらく続いたようです。
 Kala*kaua王がサンフランシスコで亡くなった1891年に10歳、王朝が転覆した1893年には12歳……そんな時代をかろうじて知っているSam Li'aは、いわばハワイ語で考え生きた最後の世代。音楽のみならず深いハワイ語の知識があったといい、伝統的なkaonaのエキスパートである彼から、Eddie Kamaeが音楽以外の伝統文化を学ぶことも多かったのではないかと思われます。そして、そんな夢のような交流から生まれたのが、『Kanaka Waiolina』でした。
 この歌を作ったDennis Kamakahiは、Eddie KamaeとともにSons of Hawai'iのメンバーとして活動していたひと。バンドメンバーのなかでも若手のDennisでしたが、ロックンロールがもてはやされた時代に、ハワイの伝統的な音楽を自分で作りたいと学んでいたようなひとで、Eddieはぜひとも彼をSam Li'aに会わせたいと考えたようです。そうして、Kamakahiは、EddieからSamの話を聞いてこの歌を作り、Samにプレゼントすべく二人でWaipi’oに向かった……ということは、最初のバースで「ma*ua」(ぼくら二人)と歌われたのは、この旅の先取りだったというわけですね。また、繰り返されるhuiの「ぼくら二人はあなたのalohaに感謝している」(mahalo ma*kou i kou aloha)というくだりは、いきなりやってきた若者におしみなく持てる限りの知識を与えてくれた、偉大なSam Li’aに対する万感の思いが込められている……ということになるでしょうか。
 ですが、二人はSam Li'aに会えなかったばかりか、Sam本人がこの歌を聴くこともありませんでした。というのも……Sam Li'aは長年、糖尿病を患っており、もはや足の切断しかないことを医者から宣告され、彼らが到着する直前に入院。そして、もう十分生きたからと手術を拒否し、ほどなく息を引き取ってしまうんですね。1975年、享年94歳でした。
 Sam Li'aが亡くなってほどなく、Eddie Kamaeは彼のことを記録すべく、映像の制作に取りかかります。そうして1988年に完成したのが、『Li'a: the legacy of a Hawai'ian man』。Sam自身の映像こそ入っていないものの、霧のかかるWaipi’oをバックに流れる90歳を超えた彼の歌声(「forgiveness chant」)は、力強く、しかもスクリーンを流れる雲のように繊細で、彼の確かな息遣いを伝えているようです。
 Sam Li'aに会いに行ったとき、Eddie Kamaeは43歳、自身の音楽キャリアに行き詰まりを感じていたころだったらしく、思い立って向かったWaipi’oへの旅は、めまぐるしく移り変わるHonolu*lu*の音楽シーンからの逃避行でもあったのではないか……Samの自宅のテラスで楽器を手にする二人の写真をみていると、ふとそんなことを想像したくなります。ビジネスの世界で先行きが見通せないなか、長年、純粋にハワイの伝統を音楽で形にしてきたSam Li'aの存在は、Eddie Kamaeにとって、過去にも未来にも自らを導く希望の光だったのではないか……軽やかなフィドルの響きとともに、孤高のフィドル奏者とEddieとの、素朴な交流の温かさが伝わってくる気がする、そんな『Kanaka Waiolina』なのでした。

by Dennis Kamakahi

*:Sam Li’aが音楽に出合ったのは彼が8歳のとき、旅をして回る楽団が彼の住むまちにやってきて、夢中になって聴いたのが彼の音楽人生の出発点でした。1880年代当時のハワイアンバンドは、ウクレレ、ギター、そしておもにリードを担当するフィドルといった編成が多かったようですが、Samはすぐさまフィドルに魅了され、演奏を聴いた次の日には森にいって竹を切り、マンゴーワックスを塗った弦を張って、自作の楽器で演奏をはじめます。この20年ほど後にはスチールギターが登場し、リード楽器としてのフィドルの役目は少なくなりますが、Samの子ども時代はまだすぐれたフィドルプレイヤーがいたころで、彼自身、多くの楽器を演奏するなかでも、生涯、フィドルを最も愛したとされています。
**:『Heha Waipi'o』は、Sam Li'aが22歳にしてはじめて作った楽曲。結婚する友人に頼まれてプレゼントしたものですが、その友人の姉妹がHonolu*lu*に住んでいて、有名なバンドマスターにこの曲を紹介する機会があり、その彼からLili’uokalani女王が知るところとなって、Royal Hawai’ian Bandが演奏することになった……という幸運が重なったおかげで、ほかのバンドがそれをレコーディングすることにもつながったようです。
***:Jonah Ku*hio* Kalaniana'ole Pi'ikoiは、幼くして両親を亡くし、Kala*kaua王の妻、Kapiolani女王(母方の叔母)に引き取られて養子(ha*nai)になったひと。王朝転覆後の1895年には、ハワイ共和国(当時の暫定政府)に対するレジスタンス運動に参加、投獄されるといった経験の持ち主でもあります。ハワイの合衆国併合後は政治家として活躍。
****:こうしてSam Li’aに歌で送り出されたKu*hio*が1920年に合衆国議会に届けた文書には、「多くの組織を視察した結果言えるのは……ハワイのネイティブのひとびとが民族として自らを取り戻す唯一の方法は、彼らが大地を取り戻すことにほかならない」という趣旨のことが書かれているとのこと。Primce Ku*hio*にとって、ネイティブのコミュニティの生活を知ることがいかに重要だったかがうかがわれます。
*****:彼の父、Sam Li'aのほうが、『Hi'ilawe』の作者として知名度があるようです。
******:1番の歌詞に含まれる「静かに暮らしている」(noho 'ana i ka ma*lie)は、Waipi’o渓谷に抱かれるようなロケーションのことであるとともに、華やかさとは無縁の彼の生き方を暗示するように思われます。
*******:Mary Kawena Pukuiといえば、辞書の編纂をはじめハワイ文化に関する著書も多い研究者。ハワイ語の詩や歌を収集すべく各地を訪ねていたころに、彼女とSam Li'aとの付き合いがはじまったようです。

Eddie Kamae(1927-2017)
Honolu*lu*生まれ。ミュージシャン、コンポーザー、レコーディングアーティスト、レコードプロデューサー、フィルムメーカーと多彩に活躍。自らの音楽活動のみならず、ハワイアンミュージックの伝統を保存し後世に残すことに尽力した。Sam Li'aだけでなく、多くの古い世代の文化の担い手たちを最後の生き証人として記録すべく、彼らの人生や考え方から知識までを精力的に取材したことでも知られる。

Dennis Kamakahi(1953-2014)
 Honolu*lu*生まれ。Eddie KamaeのもとSons of Hawai'で活動(1974-1995)。彼がEddieに紹介されたのは1972年。二人で知識を共有すべく行動をともにし、数カ月間、スラッキーギターのチューニングをリサーチする旅に出かけたこともあるという(彼が1974年にMoloka‘i島の東側の地域を訪れ『Wahine ‘Ilikea』を作ったのも、Eddie Kamaeとのリサーチの旅の道中)。Dennis KamakahiをMary K Pukuiに紹介したのもEddieだったといい、伝統的なハワイ語の詩的表現(kaonaなど)を学んだ彼は、美しいだけではない、正しいハワイ語によるmele作りを心がけていたとされ、深く歌に入り込むための的確なことば使いにこだわりがあったとされる。

参考文献
1)Houston JD, Kamae E: Hawaiian Son: the life and music of Eddie Kamae. Honolulu, 'Ai Pohaku Press, 2004, pp100-107, pp128-144
2)Kanahele GS: Hawaiian music & Musicians-an encyclopedic history. Honolulu, Mutual Publishing, 2012, pp430-432, pp435-438, pp866-867

*参考にしたサイト
https://hanahou.com/14.5/the-poet-of-waipio
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隙間のりりー

フラダンサー&ミュージシャンを応援するハワイ語講師。
メレの世界を深く知るためのハワイ語を、わかりやすく解説します。