Kula*iwi

Kula*iwi




https://www.youtube.com/watch?v=r7yQgvKqJIM&feature=youtu.be


 太陽が昇る(東の)Ha’eha‘eから、
 ここちよい(西の)島、Lehuaまで。
 (無数の)私が、あなたの子どもとして存在する。
 Ha*loaをはじまりとする愛すべき子孫として。

 Mai ka pi'ina a ka la* i Ha'eha'e
 A i ka mole 'olu o Lehua
 Eia au ko kama e*
 He mamo aloha na Ha*loa

 「Mai~Ha'eha'e a i~Lehua」(Ha'eha'eからLehuaまで)と東西に連なるハワイの島々の全体が見わたされ、そこを「kula*iwi」(故郷)とするひとびとの思いが語られる『Kula*iwi』。Ha'eha'eはHawai'i島PunaのKumukahiにある場所で、島の東の端に位置することから、太陽が最初に現れるスポットとして詩的に表現される地名。一方、Lehuaは、ひとが暮らす島としては最も西にあるNi'ihau島の北側、海峡を経てて700メートほどのところにある小さな無人島*。こちらは太陽が沈む場所としてイメージされており、Ha'eha'eとLehuaでもって、太陽の恵みを受ける豊かなハワイの島々全体が語られる詩的表現があったりもします**。このバースでは、そんな列島の子ども(ko kama)である「私」(au)が、ここにいる(eia au)と宣言されているわけですが、それはあるひとりの私というよりも、島々をkula*iwiとして生きるひとりひとりの個人を意味するのではないかと考えて、「無数の私」と訳してみました。
 さらにこの「子ども」(kama)については、「愛すべき子孫」(he mamo aloha)であり、「Ha*loaを始まりとする」(na Ha*loa)とも表現されます。Ha*loaといえば、ハワイのひとびとのルーツを語るハワイの創世神話『Kumulipo』で、人間のはじまりが語られる箇所に登場する固有名。そこにアイデンティティのより所があるハワイのネイティブのひとびとのことが、「Ha*loaの子孫」(He mamo aloha na Ha*loa)と語られているものと思われます***。

 Hawai'iこそわがふるさと。
 遠い祖先の時代からずっと。
 (Hawai'iは)誰もお金で売り買いできるようなところではない。
 私が丸ごとそこにつながっている(いわばアイデンティティにほかならない)のだから。

 ‘O Hawai'i ku'u kula*iwi
 Mai na* ku*puna mai
 ‘A'ohe mea na*na e ku*'ai
 I ke ewe o ku'u mau iwi

 「遠い祖先の時代から」(mai na* ku*puna mai)、「Hawai'iこそわがふるさと」('o Hawai'i ku'u kula*iwi)……ちょっと大げさな印象はありますが、ハワイ人としてのアイデンティティのより所を強く求めるひとにとって、kupunaの時代からといわざるを得ないなにかがあることがうかがえる表現です。それにしても、そのふるさとが「誰かが買えるようなものではない」('a'ohe mea na*na e ku*‘ai)とはどういうことなのか……。このあたりについては、欧米化する以前のハワイでは、土地取引どころか貨幣経済そのものが存在しなかったことを考えあわせる必要があると思われます。
 19世紀もなかばにさしかかるころ、ハワイに定住するようになった欧米人の圧力を受けて、土地の個人所有を可能にすべく法整備が進められた時代がありました。そうして誕生した法律「Ma*hele」****のもと、土地をめぐる古来のヒエラルキーが解体され、ハワイでも土地はお金さえあれば買える(ku*'ai)ものになっていきます。そして、このバースでは、まさにこの土地の売買が否定されている、言いかえると、社会制度が大転換したことで、「祖先から受け継がれてきた(大地)」(mai na* ku*puna mai)が姿を変えてしまったことが問題視されているようです。
 ここで、欧米流の近代的な土地制度が導入されるまでの、ハワイ古来の共同体のありかたをたどっておきたいと思います。それは、なによりAkua(神的存在)を頂点とし、人間を超えた崇高な存在と人間の世界との間をつなぐことが政(まつりごと)であり、それを担うのがひとびとの上に立つ「Ali'i Nui」でした。そして、彼らに仕え、より地域のひとびとに近い立場で具体的な指示を与える役割を担ったのが「konohiki」で、彼らの導きのもと、日々、土地に根ざした生産活動を行うのが、いわゆる庶民階級の「maka'a*inana」ということになります。この役割分担のもとで、土地は誰のものでもなく、しいていえば、この世界そのものが、土地も含め(人間もそこに含まれる)自然環境の理(ことわり)を司る神々のものであったとされます。また「神」というと摩訶不思議な印象がありますが、「Akua」がポリネシアの古語では「死」を意味することばだったことから考えると、古代のひとびとの祈りや捧げものが意味するところも理解しやすくなります。大きく捉えると、「Akua」に対するひとびとの行いには、彼らの生活から死を遠ざけ、なにより生きとし生けるものの繁栄を祈願する思いが込められていたわけです。神々への貢ぎ物を用意するのは「maka'a*inana」であり、これをいわゆる税と考えると、封建的な社会制度の一形態といえないこともなさそうですが、重要なのは、ヒエラルキーや役回りといった違いはあっても、すべてのひとびとが「ma*lama 'a*ina」(土地をケアすること)をそれぞれの持ち場で担いながら、同じくよきものを目指していたということ。わかりやすくいえば、余剰価値を生み出そうという発想がない非資本主義的な世界で、いまはやりの持続可能な経済活動が自ずと行われていた、ということになるかもしれません。
 もうひとつ、土地は売り買いできるものではないとされる根っこのところには、土地を売ることは身内を、たとえば自分の親きょうだいを売ることに等しいという感覚があるようです。先に挙げた『Kumulipo』のPapa&Wakeaの物語に、ハワイの島々の誕生を語るくだりがあったりするのがそのあらわれではないかと考えられますが*****、この徹底的に金銭という物差しと相いれない古代のハワイ的価値のあり方に、もしかすると、現代人が取り戻すべき大切ななにかが含まれているのではないか……という気がしないでもありません。

 私は自分が愛する民族の一員として生きる。
 ネイティブの責任と権利(をより所として)。
 (ここに)その自覚のもとに宣言する。
 私はずっとHawai'i人だと。

 E ola au i ku'u la*hui
 Ke kuleana o ka 'o*iwi
 'O ka 'i* ma ka*na 'o*lelo
 He Hawai'i au mau a mau

 私は宣言する('o ka 'i* ma ka*na 'o*lelo)……ここではかなり強い仕方で、「私はHawai'i人だ」(he Hawai'i au)と自覚するひとり一人の立場から、「大切なla*hui」(ku'u la*hui)の一員、すなわちハワイのネイティブ(ka 'o*iwi)として、その責任(ke kuleana)のもとで生きるという決意が述べられています。「La*hui」は「民族」とも訳されることばですが、もしハワイのひとびとがハワイ人としての主権を持ち続けていたら、la*huiがすなわち独立した国家でもあったことは、この歌がハワイ人のアイデンティティ表明である限り、忘れてはならないように思われます。というのも、「われわれはハワイ人だ」と呼びかけるこの歌のメッセージは、裏を返せば「われわれはアメリカ人ではない」という思いでもあるはずですから……。
 タイトルの「kula-iwi」に含まれる文字通りの意味、「先祖代々骨を埋めるところ」に引きつけるならば、資本家の思うがままに売り買いされた結果、ネイティブの先祖の墓地がリゾート地になってしまっている、といった現実にも目を向けるべきかもしれません。そんなところから、ハワイのネイティブのアイデンティティが表明されているこの歌が、あの列島を訪れる観光客にとっても決して無関係ではないことがみえてくるのではないかと思われます。多くのハワイ好きが夢見る南の島は、そこに存在するさまざまな負の部分を覆い隠すことで作り上げられた幻想なのだということに、私たちはもう少し関心を持つべきではないのか……そんなことを考えさせられた『Kula*iwi』なのでした。

*:Lehuaは、Ni'ihau島の北0.7マイル(1.1 km)にある三日月形の小島。284エーカー(1.15平方km)ほどの広さの無人島ですが、上陸は禁止されておらず、シュノーケリングやスクーバダイビングで訪れることは可能。島の最高地点は704フィート(215m)。
**:「Mai ka la* 'o*'ili i Ha'eha'e a ha*li'i i ka mole o Lehua」(Ha'eha'eに太陽が現れてからその光がLehuaの地に広がるまで)。
***:『Kumulipo』では、雨を降らせる天であるWakeaと、大地であるPapaをはじまりとして、kalo(タロ芋)として誕生した兄のHa*loaに続いて、人間Ha*loaが生まれたとされます。ちなみに、「ha*-loa」の文字通りの意味は「kaloの長い茎」。そこには、栄養となって人間の命の源であり続けたkalo(ha*-loa)を、人間のはじまりのところにあったとする人間観が語られていると思われます。
****:この法律は、一般的には「Great Ma*hele」と称されますが、『Native Land and Foreign Desires』(Kame'Eleihiwa L, 1992)では、ハワイのネイティブのひとびとには利益をもたらさなかったという理由から、「Ma*hele」という用語が選択されています。
*****:まず、PapaとWakeaから生まれたのがHawai’i島、Maui島、そのあとに続いたのが娘のHo'oho*ku*kalani。二人のHa*loaはこの娘とWakeaとの間に誕生したと語られることもありますが、そのあと再びPapaとWakeaが交わるようになり、彼らからKaua’i島、Ni’ihau島、Lehua島、さらに西のKa'ula島へと続いたとされます。

by Larry Kauanoe Kimura

参考文献
1)Pukui MK: 'Olelo No'eau-Hawaiian Proverbs and Poetical Sayings. Honolulu, Bishop Museum Press, 1983, p224
2)Kame'eleihiwa L: Native Land and Foreign Desires―Pehea LA E Pono Ai? How Shall We Live in Harmony? Honolulu, Bishop Museum Press,1992, pp23-33
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コメント

Katsukiyo Y

Mahalo
このメレの意志と、地理や神話などの広がりを教えていただき、この曲が一層好きになりました。
ありがとうございます。
映像の若人の歌う姿に接し、ハワイアンルネッサンスは、新しい世代に受け継がれて来ており、厚みを増していると感じています。

隙間のりりー

Katsukiyoさま
Katsukiyo さま

コメントありがとうございます。若い世代の楽曲にメッセージ性の強いものがあって驚かされますし、着実に育っているものがあるようですね。歌を通じてこそ知ることができるハワイがあるなぁと感じます。
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隙間のりりー

フラダンサー&ミュージシャンを応援するハワイ語講師。
メレの世界を深く知るためのハワイ語を、わかりやすく解説します。