VIDEO 私たちの命はこの大地に生かされている。
私たちの正しさの拠り所もいまここにある。
(それはすなわち)私たちの先達に(ならうこと)。
No ʻaneʻi ko kākou ola
No ʻaneʻi ko kākou pono, ʻea,
E nā kūpuna
なにものにも揺るがされることはないし、
なにものにも圧倒されることはない。
(それはすなわち)先の世代(に守られてのこと)。
ʻAʻohe mea nāna e hōʻoni
ʻAʻohe mea nāna e kulaʻi, ʻea,
E nā mākua
晴れやかなリズムと陽気なメロディに、「さぁ、きみも踊りなよ!」と誘いかけるような勢いを感じる『No ʻAneʻi』。ですが、歌詞を読むと、その軽いノリのいい印象に反して、「われらの命」(ko kākou ola)や「われらにとっての正しさ」(ko kākou pono)について語られており、それらが「いまここ」あるいは「この大地」のおかげである(no ʻaneʻi)とも歌われているという、そのかなり硬派な内容に驚かされます。しかもその呼びかけは、「祖先たち」(nā kūpuna)や「両親たちの世代」(nā mākua)に向けられており、単に個人的な問題というよりも、ハワイのひとびとが先祖代々受け継いできた正しさ(pono)が、自らが立つその場所を拠りどころとすること(no ʻaneʻi)を高らかに宣言するような感じもあります。
若くこれからを担う世代よ、
祈りをひとつにして乗り越えるんだ、ねぇみんな!
E nā hoa ʻōpio, ʻeā,
Alu ka pule i Hakalau lā, ʻeā e ke hoa ē
自分が習うべき上の世代に呼びかけられていた先のバースとは異なり、ここでは「若いみんな」(e nā hoa ʻōpio)と、これからを担う世代に向けて語られています。この歌が収められたKalani PeʻaのCDのブックレットによると、楽曲の作者であるKauanoe Kamanāは、Kalani Peʻaの母校、Hawaiʻi島HiloにあるKe Kula ʻO Nāwahīokalaniʻōpuʻuのディレクターで、この歌には、ハワイ語によってハワイのひとびとが連帯意識を持てるようにとの願いが込められているようです。また、文字通りには「Hakalauで祈りをひとつに」と訳せそうな「alu ka pule i Hakalau」は、多くのひとたちに向けて、思いを一つにすることや団結の大切さを呼びかけるときに用いられるフレーズ。その昔、Hakalaūのまちでとある魔法使いが隣人たちに呪いをかけたときのエピソードがもとになっていることわざです。伝えられるところでは、災いをもたらす呪文に対抗すべく各人がバラバラに祈ったのではダメだったところ、その地を訪れたあるkahuna(古代ハワイの聖職者)の助言のもとでみなが力を合わせ、ともに共通の敵を撃退すべく祈ったことで、無事、呪いが解かれたという、そんなエピソードがもとになっているとされます。歌のなかでは戦うべき相手について具体的に語られていませんが、冒頭で、大切な価値として「われわれの命」(ko kākou ola)や「われわれにとっての正しさ」(ko kākou pono)が挙げられていたことからすると、それらを守るために、いまここにある理(ことわり)に従う(no ʻaneʻi)ことを妨げる力に抵抗しよう……といった意気込みが表現されているのではないかと思われます。
大地を愛するみんな、
ぼくらに背を向けないで(ともに進もう)。
ハワイのみんな、
ハワイのみんな(に向けて歌うよ)。
E nā hoa o ka ʻāina,
Mai huli kua mai iā mākou lā, ʻeā,
E nā Hawaiʻi,
E nā Hawaiʻi
求めてやまない者たちよ、
さぁ立ち上がれ。
Nāwahī(の志に)応えよう、
さぁ、いまこそ立ち上がれ!
E Lēkia ē
ʻOni a paʻa,
E Nāwahī ē
ʻOni a paʻa
「大地の友たちよ」(e nā hoa o ka ʻāina)、「われわれに背を向けず(ともに戦おう)」(mai huli kua mai iā mākou)と、ここでも大地(ka ʻāina)への思いがキーワードになっており、それを拠り所につながろうというメッセージが投げかけられていることがわかります。そして、「(思いを)貫こうとする者よ」(e Lēkia)に続く「e Nāwahī」は、おそらく作者であるKauanoe Kamanāがディレクターを務める学校が、その意思を継ぐべくその名に掲げる人物、Joseph Kahoʻoluhi Nāwahīokalaniʻōpuʻuへの呼びかけではないかと思われます。
Joseph Nāwahī(1842-1896)は、Hilo Boarding School、Lāhaināluna、Royal Schoolといった、ABCFM(米国から訪れた宣教師たちによる組織)により設立された学校で学び、自身も教師となって寄宿舎学校を創設するとともに、代議士として政治の世界でも活躍した人物。学歴からうかがえるように、彼は早い時期にクリスチャンとして欧米的価値観を受け入れたネイティブのひとりですが、政治家としては徹底して王朝を支持し、宣教師をはじめ合衆国併合派が政治的に台頭することを許さなかったひとでもあります。キリスト教に同化しながらも、Hawaiʻiのネイティブとしてのアイデンティティを大切にし続けたNāwahīの姿勢は、伝統に根ざしつつグローバルな世界を生き抜くことを理念として掲げる、Ke Kula ʻO Nāwahīokalaniʻōpuʻuの教育にも受け継がれているようです**。
生きること(ke ola)やそれを可能にする正しさ(ka pono)が大地とのかかわりの中で語られ、それらを守るために「立ち上がれ」(ʻoni a paʻa)と締めくくられる『No ʻAneʻi』。そこに込められた熱い思いをたどりながらあらためて感じるのは、ハワイ語で「Aloha ʻĀian」と表現されることがらが、欧米的な「patriotic」とも日本語の「愛国」とも異なるのではないかということ。少なくともそれは、ノスタルジックな故郷への思いではなく、きわめて具体的でひとびとの生活に結びついており、そのためにこそ大地を正しく守ることが大切だという、まさにいまここに直接かかわる「no aneʻi」ではないかと思われます。たとえば、ハワイ語で「ke ola」と語られるときの「生」は、死後に獲得されるキリスト教的な永遠の命といった抽象的なものではないわけですが、この点で、先に挙げたNāwahīが、クリスチャンでありながらハワイ的な大地とのつながりにおいて生をとらえていたことは、外国由来の伝染病によるネイティブの大量死がリアリティそのものだった時代ならでは、といえるかもしれません。そう、これ以上、植民地化が進むのは、われわれネイティブにとってはさらなる災いでしかない……合衆国側から語られる歴史において、長らくスポットがあてられてこなかった部分ではありますが、「Aloha ʻĀian」を旗印に合衆国併合に抵抗したネイティブのひとびとは、このことを肌で感じ、危機感を抱いていたに違いありません***。
Nāwahīも、その政治活動のさなかで逮捕され、収監中に罹患した結核がもとで亡くなっています。この激動の時代に散った人物への呼びかけに、はたしてどんな思いが込められているのか……と思いめぐらせていると、「no aneʻi」の立場からHawaiʻiを守ろうとした彼のメッセージが、時空を超えて届けられた気がしてくる、そんな力強さを感じる『No Aneʻi』なのでした。
by Kauanoe Kamanā
*:Hakalauは、ヒロの中心部からHamakuaコーストを車で20分(10マイル)ほど北上したあたりのまち。
**:Ke Kula ʻO Nāwahīokalaniʻōpuʻuのウェブサイトには、以下のような学校の基本方針が記されています。「(本校は)家庭での第一言語がハワイ語である家族,あるいはそうなることを選んだ家族のための学校で、その目指すところは、学校や家庭における教育を通して、ハワイ語を持続させるべく発展・強化することにある。と同時に、英語や日本語のような外国語を学ぶといった国際的なアプローチは、ハワイ語を話すコミュニティを活性化させることにも通じており、ハワイ語の世界でのスキルを養うことは、その外の世界との相互関係を通して真に達成されるものでもある」(著者訳)。
https://www.nawahi.org/apps/pages/index.jsp?uREC_ID=638862&type=d&pREC_ID=1102638
***:18世紀末以降、外国人が持ち込んだ病原菌が多くのハワイ人の命を奪い、ネイティブ人口が激減しますが、それはとりもなおさず、彼らが政治的主権を失う過程でもありました。そんな時代に、ネイティブの側からジャーナリストとして発信し、政治家としても活躍したのが、この歌に登場するNāwahīです。
Joseph Kahoʻoluhi Nāwahīokalaniʻōpuʻu(1842-1896)は、HiloとPunaから選ばれて、1872~1884年まで代議士を務めた人物。1874年に行われた王位継承をめぐる選挙では、KalākauaではなくEmma女王に投票し、以来、欧米勢力率いるReform Partyの台頭を許すKalākauaに反対し、合衆国併合を阻止する立場を貫きました。
1893年、合衆国併合派によるクーデターに続き、Liliʻuokalani女王が退位を迫られる状況にあって、女王を支持する男性活動家により「Hui Hawaiʻi Aloha ʻĀian」、およびその姉妹組織「Hui Hawaiʻi Aloha ʻĀian o Nā Wāhine」が組織され、Nāwahīは前者のトップを務めました。Liliʻuokalani女王が失脚し、暫定政府のPresident Clevelandが合衆国併合に向けて条約を起草していたころ、President Sanfold Doleとその仲間たちは、彼らの権力を正当化し、Hawaiʻiを全面的に支配すべく恒久的な政府の樹立を目指していました。そんななか、1894年のはじめに同年5月には議会を作ることを宣言。仲間うちの19人が代表者として自らを招集し、残り18人を普通選挙によって選ぶことを決定します。もっとも、選挙にあたっては、まず暫定政府への忠誠を誓うことをサインさせるという手続きをとり、ハワイにおいて王政を再興しようとするいかなる試みにも加担しないことを約束させたことから、合衆国併合に反対する圧倒的多数のKānaka Maoli(ハワイのネイティブ)はサインすることを拒否。そのため、普通選挙とはいえ投票した4000人あまりはほとんどが外国生まれのひとびとでした。この不公平な選挙に抗議する動きが起こり、併合反対派は合衆国をはじめ英国、仏国、独国、日本、ポルトガルの首長あてに抗議文を送付。合衆国政府による平和的対応を信じて16カ月経ったころ、暫定政府は合衆国の最終的な判断を待たずに恒久的な政府の設立を宣言し、非民主的かつ専制的な法の下で、自ら共和国を名乗るに至ります。そうして、多くのKānaka Maoliおよびアジアからの移民も投票できない状況のもと、言論および出版の自由にまつわる権利が法律で制限されるようになり、発言であれ出版であれ、政府を批判することは治安を脅かす暴動とみなされるようになります。
そんななんか、1894年に暴政に抗議する集会が開かれます。おおよそ5000から7000人が集まったとされますが、その聴衆を前に、Nāwahīは次のような演説を行ったといいます。「主権はわれわれにあり、統治機構はKamehamehaが構築したもの。よそものたちが、まるでlei売り場に押し込むように、われわれを経済活動の周辺に追いやった。われわれは、この現状を断固として許してはいけない」(著者訳)。ここで「lei売り場」と語られたのは、古来のハワイ的な生業に取り残され、経済活動の周縁に追いやられたネイティブの状況を語るものだと考えられます。こうして、植民地主義のもとでのいかさまの立憲政治を批判するも、共和国政府は自らを合法とする立場で暴政を続け、彼らの行いを違法と判断した合衆国大統領の判断をも退けるという状況が続きます。
そんな、他国の外交的な助けも期待できないいらだちのなか、武力に訴えるしかないと考えるひとたちも現れ、ひそかに武器購入を計画していたことが発覚。このときNāwahīは逮捕され、2カ月間の収監中に結核に罹患。後に病が悪化し、サンフランシスコでの療養のかいなく1896年に亡くなります。逮捕でひとたび絶たれた出版活動については、出所後の1895年に再開しており、新たに週刊の新聞『Ke Aloha Aina』を発刊していましたが、Nāwahīの死後は妻のEmma Nāwahīが彼の意志を引き継ぎ、ネイティブの側からの発信を続けました。
1)Pukui MK: ʻŌlelo Noʻeau. Honolulu, Bishop Museum Press, 1983, 15
2)Silva NK: Aloha Betrayed-Native Hawaiian Resistance to American Colonialism. Durham, Duke University Press, 2004, pp129-133, pp136-142
3)Osorio JK: Dismembering Lahui-A History of the Hawaiian Nation to 1887.
Honolulu, University of Hawaii Press, 2002, pp159-161
スポンサーサイト
コメント