『ハワイ語のはなし』(ハワイ語研究の歴史2)

ハワイ語のはなし137(2016年10月配信)
137 ハワイ語が文字を持ち始めてから……


 19世紀はじめにハワイにやってきた宣教師たちが、聖書のハワイ語訳に取り組んだことがそもそものはじまりだったようなところがあるハワイ語研究。欧米化の過程で失われたハワイ語を後世に残す役割を果たしたのが、新しい時代の旗振り役でもあった聖職者たちだったとは皮肉な話ですが、今回は、そんなハワイ語をめぐるちょっと入り組んだ事情も含めて、言語からみえてくるハワイの激動の時代をたどってみたいと思います。

 ハワイのひとびとと欧米人との交流がはじまってから2世紀あまり、公用語としてはほぼ完全に英語に取って代わられ今日に至るハワイ語*。その過程はハワイのひとびとがキリスト教化する歴史でもあり、はた目には宗教とともにことばも乗っ取られた感じもありますが、意外なのは、少なくとも最初に布教を行った米国の宣教師たちには、ハワイ語を英語に置き換えようという意図はなかったらしいこと**。というのも、彼らが派遣された当初のミッションは、「ハワイのひとびとに彼ら自身のことばで書かれた聖書を与え、自ら読む能力を身につけさせること」だったからです。というわけで始まったのが、宣教師たちによるハワイ語研究であり、書き文字のなかったハワイ語をアルファベットで表記する試みでもあったわけですね。
宣教師たちがアルファベットを用いたのは、既存の活字がそのまま印刷に使えるメリットもあってのことだと思われます。それでも、ハワイ語で多用される文字、とくに「k」や「a」が足らず、本国からの取り寄せもままならず苦労することもあったようです。活字ならともかく、彼らを派遣したボストンの本部からの援助も次第に滞るようになったようで、宣教師たちが、ミッションどころかしだいに生活にも困窮するようになったであろうこともうかがえます。そんな状況で、ビジネスマンに転向する宣教師があらわれたのもなるほどって感じですが、さしあたっては、聖書などの印刷物と生活必需品とを交換してしのいだらしい……そう、いわゆる物々交換ですね。もともと貨幣がなかったハワイの、19世紀はじめの経済事情もうかがえるエピソードですが、読む楽しさを知ったハワイのひとびとに、早く本がほしいと懇願される状況もあったようです。なんにせよ、印刷技術のキャパシティの問題もあって、当時の印刷物は相当貴重だったものと思われます。
 そんな事情もありつつ、19世紀はじめから半ばにかけて、おもにミッション系の版元が誕生し、ハワイ語の読み物が盛んに出版された時期がありました。宗教的なテーマや教育目的のものが大半で、当時のハワイ語の新聞に掲載されたコンテンツがまとめられることも多かったようですが、語りのことばでしかなかったハワイ語が、(内容は限定的だったにせよ)文学として存在し始めた時代だったといえるかもしれません。そして、その担い手は、教えを伝えようと海を渡り、ハワイ語研究を続けた宣教師たちだったわけです***。
 そうして、書き文字としてのハワイ語が浸透していくのと並行して、ハワイのひとびとのバイリンガル化も徐々に進んでいきます。ということは、英語がわかるハワイ人が増えて、宣教師たちにとっても好都合だったのでは……と思いきや、ハワイのひとびとが、英語を通してある種の欧米文化に接触することを、あまりよく思っていない宣教師もいたようです。たとえば、夜ごと飲み明かしては大声で歌い騒ぎ、ときに異性を物色する、みたいな……と誇張して書いてみましたが、船乗りたちが闊歩しはじめた港町、たとえばHonoluluあたりに持ち込まれた、俗っぽい大衆文化が許せなかったようです。それで、とくに古い世代の宣教師たちからは、「ハワイ人にはハワイ語がわかる宣教師とだけ関わってほしい」なんて極端な意見も聞かれたんだとか。1840年代はじめ頃の話ですが、学校での英語教育は、まだ王族の子どもたちなどに限定されていた時期でもあり、一般のハワイ人にとって、英語は欧米文化の負の部分に接触する入り口でもあったのかもしれません。そんな状況で、バイリンガルといっても流暢に話せるのは王族や特権階級だけという段階を経て、1850年代になると、一般人の子どもたちへの英語教育が公教育の場で行われるようになります。
 当初はハワイ語か英語かといった二者択一の発想はなく、おもに議論されたのは、ハワイ語と英語の授業の割合をどうするかでした。ですが、しだいにハワイ語派が英語推進派におされ、社会状況の変化ともあいまって、学校教育におけるハワイ語はしだいにその存在感を失っていきます****。英語推進派からは「ハワイ語では読み書きも算数も十分学べない」といった意見もあったといい、ハワイ語で教える教師がそもそも育っていなかったためでもあるようですが、移民労働者の増加、とくにヨーロッパからやってきたポルトガル人あたりには英語の需要が高かったりする一方で、外来の病原菌のために多くのネイティブが命を落としたことも、ハワイ語を母語とするひとが激減した大きな要因でもありました。そんなふうに、状況的には確実にハワイ語が衰退に向かうなか、ネイティブのひとびとの間に、依然としてキリスト教化以前の古い価値観が根強く残っていたことが、ハワイ語を排除する機運を高めた側面もあったようです。たとえば、ハワイ古来の神々や、彼らに仕えその教えをひとびとに伝えるkahuna(ハワイ古来の聖職者)たちの存在、そして、ハワイ的な価値を身体で表現するhula……そして、そんな伝統を大切にしたKala*kaua王(在位は1874-1891)の復古的なふるまいも、宣教師や政治の中枢にいるひとびとを相当いらだたせもしたようです*****。
 Kala*kaua王の死後、合衆国併合に向けた動きが加速化するハワイですが、それと歩調を合わせるように、ハワイ語に対する圧力も顕著になっていきます。まず、合衆国併合前の1890年代はじめに、キャンパス内でのハワイ語使用が禁止されるようになり、行政的にも、ハワイ語で教育を行う学校への予算配分が、英語で教育する学校の5分1に減らされます。教員の確保も含め、学校運営自体が立ち行かなくなる学校が続出したはずですが、当時の統計によると、1880年には150校(学生数4,000人あまり)でハワイ語での教育が行われていたところが、1902年には学校数ゼロ、100パーセント英語教育になったといいます。1880年に英語による教育が行われていた学校は60校(学生数3,000人あまり)だったことを考えると、時代状況の変化もあったとはいえ、政策による影響は大きかったものと思われます。その後、1893年の合衆国併合をさかいに公教育の英語化が徹底され、その3年後にはハワイ語による教育は非合法になり、Ni’ihau島以外ではキャンパス内でのハワイ語使用も禁止……そうして、国の方針としてハワイの英語化が目指されるところとなります。
 なんとなく、ハワイ語消滅の歴史みたいな話になってきましたが、ハワイ語を母語とするネイティブの減少、移民労働者の急増といった、人口構成そのものが大きく変わる状況にあって、「子どもに英語で学ばせたいという」という要望の高まりも事実あったようです。ハワイ語をめぐる政治的な動きを、そんな社会の変化に沿ったものとみるか、母語を政策的に奪われたネイティブの立場からみるか……つまり、同じ状況をめぐってまったく別の見方があり得るわけで、そう考えると、白か黒かでは語れない、非常にデリケートな問題を含んでいるといえそうです。それでも、政治的混乱のなか、『Kaulana Na* Pua』(1893年)といったプロテストソングがハワイ語で歌われたことは、当時、ハワイ語がたしかに生きたことばとして存在していたことの証でしょうか……******。ハワイ語の歴史をたどっていると、文化はそれを支える言語があってこそ守られることや、その存続が政治と切り離せないものであることをあらためて考えさせられます。そしてそれは、決して過去の不幸な時代の話でもないと……。ぼんやりとですが、グローバル化が進んだいまこそ、そこから大切ななにかを学ぶべきときではないかという気がしています。

*: 19世紀なかばに私有地化されて以降、特殊な歴史をたどっているNi'ihau島にだけは、ハワイ語を母語とするひとびとのコミュニティがいまも存続しています。
**:米国から本格的に宣教師たち(American Board of Commissioners for Foreign Missions : ABCFM)が布教のためにハワイに訪れるようになったのは1820年。
***:宣教師の子どもたちが学んだ学校でも、1870年代はじめ頃まではハワイ語教育が行われていました。ただし、読み書き中心の教育の限界や、そもそもハワイ語教師の人材が十分でなかったこともあって、ハワイ語授業のないカリキュラムに変更を余儀なくされたようです。
****:ハワイで近代的な立法府が誕生したのが1840年ごろ、本格的な議会制がはじまり、欧米系の議員が多数誕生したのが1851年のことです。1850年代以降、公教育におけるハワイ語軽視の傾向が強まったのは、政治の場で白人勢力が台頭する一方で、新しい社会制度になじみのないネイティブたちが、自らの要求を政治に反映し損ねたことが大きな要因だったと考えられます。
*****:Kla*kaua王の戴冠の式典(1883年)で披露されたhulaのパフォーマンスに、欧米的・キリスト教的な価値観から「倫理的に好ましくない」とされる内容が含まれていたとして、その関係者をめぐる裁判も行われています。最終的に、「担当者はハワイ語がわからなかったため」という理由で無罪になりますが、焦点になったのは性的な内容を含む身体的なことがらをダブルミーニングで語る「kaona」であり、ハワイ語的な倫理観や世界観が否定されたという意味で、当時のハワイ文化をめぐる風潮を象徴する出来事だったと思われます。
******:http://hiroesogo.blog.fc2.com/blog-entry-84.html

参考文献
1)Schutz AJ: The voices of Eden-a history of Hawaiian language studies. Honolulu, University of Hawai'i Press, pp 339-354, 1994
2)Day AG, Loomis A: Ka pa'i palapala-early printing in Hawaii. Honolulu, Printing Industries Of Hawaii, 1973
3)Osorio JK: Dismembering lahui-a history of the Hawaiian nation to 1887. Honolulu, University of Hawaii Press, pp74-80, 2002

※オキナ(声門閉鎖音)は「'」、カハコー(長音記号)は伸ばす音の後ろに「*」をつけています。ハワイ語は、とりあえずローマ字読みすることが可能です。
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隙間のりりー

フラダンサー&ミュージシャンを応援するハワイ語講師。
メレの世界を深く知るためのハワイ語を、わかりやすく解説します。