『ハワイ語のはなし』(フラの歴史)





ハワイ語のはなし211(2020年7月配信)
フラの歴史



 フラといえば、セレモニーや奉納の意味合いがある「古い」(kahiko)タイプの「hula kahiko」と、これに対して「現代フラ」と呼ばれることもある「hula ‘auana」に分けて語られるのが一般的。もっとも、「hula ‘auana」の「‘auana」は「道に迷う」「渡り歩く」といった意味合いのことばで、「kahiko」と「‘auana」でもって単純に新旧を区別しているわけではなさそうです。そんなことをあらためて考えたりしながら、にわかにフラの歴史が気になり始めたのですが、今回はフラを歴史的に考察した文献をもとに、古代から現代にいたるまでのフラの変遷を、ざっくりたどってみたいと思います。


●否定からはじまった「フラの歴史」

 参照したのは、『Hula-historical perspectives』(Mary Kawena Pukuiほか、1980年、以下『Hula』)というフラの研究書。18世紀末から200年あまりのフラの歴史がたどられており、ハワイにおけるフラの位置づけについて、さまざまな角度から言及されているのですが、その冒頭に、歴史書らしからぬ次のようなことが書かれていたりします。

 「1778年以前のフラの歴史を知ることは不可能である」

 えぇ?って感じですが、1778年といえば、ハワイの島々を発見したとも語られる英国人、キャプテンクックがKaua‘i島にやってきた年。そう、書き文字を持たなかったハワイ文化は、フラに限らず、外国人の目に触れるまで記録として残されることはなかったんですね。言い換えると、船乗りたちの見聞録として始まったようなところがある「フラの歴史」でもあるわけですが、『Hula』によると、現在、儀式的なフラとして残っているhula kahiko(古典フラ)さえ、必ずしも当時のフラを継承しているわけではなく、19世紀末にかろうじて現存した、フラのトレーニングに由来するようです。というのも、米国から宣教師たちがやってきた1820年を境に、フラ受難の時代がはじまったためなんですね。セレモニーとしてだけでなく、ハワイのひとびとにとってはエンターテイメントでもあったとされるフラは、米国からやってくるようになった宣教師たちによって、みだらな異教徒の風習として、徹底的に否定されることになります。
 1830年には、キリスト教に傾倒するようになっていたKa‘ahumanu(1825年に洗礼)*が公の場でのフラパフォーマンスを禁止。1832年に彼女がなくなり、Kauikeaouli(Kamehameha三世)のもとで、いっときフラも含めたハワイ文化を認めようとする動きがあったものの、もはや王でさえ宣教師たちに逆らうことはできなくなっていたとされます。宣教師たちがしだいに政治的な力を持つようになっていたためですが、その背景には、太平洋の島々が、のきなみ植民地化されていったという当時の時代状況がありました。諸外国からの政治的圧力に屈することなく、なんとしても国家としての主権を維持しなければならない………。そんな切羽詰まった状況にあって、欧米流の社会体制を整えることから外交までを引き受け、政治的なアドバイザー役を担うようになっていたのが、布教のためにハワイにやってきた宣教師たちだったというわけです**。


●Kala*kaua王が仕掛けたハワイ文化復興のプロジェクト

 こうして、19世紀半ばには公的な場から姿を消すことになったフラですが、ハワイのひとびとの思いからフラが消滅したのではもちろんなく、フラを学び伝えようとするひとたちにとっては、息をひそめるような時代が長く続くことになります***。そんな沈黙の時代のさなかに、フラの大々的なパフォーマンスを行ったのがKala*kaua王(1836-1891、在位は1874-1891)でした。1883年の戴冠式に続き、1886年に彼のjubilee(50歳を祝う式典)のレセプションで数日間にわたり披露されたフラは、参照すべき文化遺産として、後にフラマスターたちの手で受け継がれていくことになります。そんな事情から、現存するフラのベースになっているものの多くがこの時代のフラだったりするのですが、『Hula』にはこのときリバイバルした古典フラのなかに、貴重な19世紀はじめのフラも含まれると記されています****。
 こんなふうに、20世紀に続くフラ復興の足掛かりを作ったともいえるKala*kaua王なのですが、彼自身にとっては、この二度にわたるプロジェクトが命取りになった側面もあったりします。というのも、彼自身が王朝のルーツである伝統に回帰しようとする傾向にあることを、はからずも決定的に印象付けることになってしまったからです。その結果、宣教師をはじめとする合衆国併合派によって、「無能な王」というレッテルをはられてしまうKala*kaua王なのですが、このことが、彼がほどなくBayonet Constitution(銃剣憲法、1887年制定)によって実質的な政治権力を失う引き金になったことを思うと、フラをめぐる歴史のひとこまというには、あまりに大きすぎる事件だったと思わずにはいられません。


●観光の島ハワイと運命をともにしたフラ

 Kala*kaua王によって復活したフラですが、その後のハワイ王朝転覆の時代を経てハワイが合衆国に併合されると、再び公的な場で披露されるフラは廃れていくことになります。20世紀のはじめに、少ないながらもフラをエンターテイメントとして復活させようとする試みはあったものの、「無邪気(天真爛漫)」「みだらなもの」というレッテルのもと、フラが価値あるものとして社会的に認められるにはほど遠い時代が続きます。
 皮肉なのは、欧米的価値観のもとで劣ったものとされてきたフラが、合衆国併合を期に、観光資源として脚光を浴びるようになったこと。「神話と伝説の島、ハワイ」を売り出すべく、ハワイのひとびとが語り継いできた民話が活字となり、読み物として流通するようになるのも、ちょうどこの頃だったりします。
 こうして、観客の好みにあわせて歌も踊りもかえられ、まずはショーアップすることが重視されるようになったフラが、20世紀半ばにかけて花開くことになります。リズム楽器だけでパフォーマンスされる古典とは別物のフラ、西洋の音階にあわせて踊る「hula ‘auana」のルーツは、この流れのなかにあるわけですね。時代的には新しい「hula ‘auana」。ですが、その誕生の経緯をたどってみると、単に新しいといったのでは語れないものであることがみえてきます。フラの原形ともいえる「hula kahiko」が、ハワイの大地に根を張ることをやめ、根無し草的に時代に迎合していったのが「hula ‘auana」……「放浪する」とも訳される「‘auana」が用いられるのは、そういう含みあってのことなのかもしれません。もちろん、伝統からとき放たれたフラが、その新たな可能性を開花させたのが「hula ‘auana」であるという側面もあるわけですが、その表現が、ハワイのネイティブによるネイティブのためのものであるかどうか?という視点を欠いたまま、フラの歴史を語ることはできないのではないか……なんてことを思ったりします。


●それでもハワイ語で歌い継がれてきたことの意味 

 『Hula』には、筆者たちにとってリアルだったフラをめぐる状況について、辛口の批評がなされています。たとえば、観光客向けのフラについては「歌詞がせいぜい伝統的なパターン(kaona、複数の意味を重ね合わせる修辞)に従っているくらいで、最悪の場合はつまらないラブソングになってしまっている。ハワイ語の歌詞に少なからぬ英語が含まれていることが多かったりするのは、ほとんどの聴衆がハワイ語を理解しないためであり、そう考えると、そもそもダンサーは歌詞に合わせて踊る必要もないわけで、そうすると、しだいに歌はダンサーの動きの付属物でしかなくなってしまう。これでは、歌と動きでもって作り上げられる、フラ表現の大事なところが失われているといわざるをえないだろう」(筆者抄訳)。
 このくだりのあと、1970年代以降のフラの潮流が、「ハワイアンルネッサンス」(ネイティブのアイデンティティのもとで展開されるようになった社会的ムーブメント)とともに言及され、現代のクムフラたちによって、ハワイのひとびと自身のためのフラが、本当の意味でリバイバルしつつあることが語られています。「いま」を生きるクムフラたちの手で、フラの伝統に命が吹き込まれるようになったわけですね。このことを肯定的にとらえる一方で、新たに創造していこうとする彼らの取り組みについては、「ときに度を過ぎた見せ物的なものに終始する結果にもなっている」といった具合に、かなり厳しい目で分析されてもいます。創造には破壊がつきものですが、どう変えていくか、いわばどのように新たな道を見出すかという、「‘auanaの品格」こそが問題であるともいえるでしょうか……。そういえば、ハワイの大地を生み出したのは、火の女神Peleの破壊と創造力なんだよなぁなんてことに思い至ったりもしながら、大地に根ざした表現がハワイ語でなければならない意味を、いまさらながらに考え始めています。


*:Ka‘ahumanu(1768-1832)は、Kamehameha一世が最も寵愛したとされる王妃。Kamehameha一世亡き後、幼くして王位に就いたKamehameha二世、三世に代わり、Kuhinanui(摂政的な立場)として政治的権力を発揮した。
**:欧米諸国からその存続をおびやかされていたハワイ王朝は、英国から理不尽な圧力を受けて、あやうく植民地化されかねない危機に陥ったことがありました(1843年)。このとき、交渉役として外交的な力を発揮したのが宣教師たちで、彼らの影響力は、その後、二世、三世へと引き継がれていくことになります。ニュージーランドが英国領になったのが1840年、続いて1842年にフランスがマルケサスを武力で占領し、タヒチもその後フランスの保護領に(1880年併合)、1853年にはニューカレドニアも併合されて……といった状況を考え合わせると、当時のハワイがあやういところにあったことも想像に難くありません。
***:フラを学ぶひとたちを非難する宣教師たちの投稿が新聞に掲載されるような時代が続いたものの、フラが法律で取り締まりの対象になるような状況ではなかったようです。
****:Kala*kauaの時代にフラを記録したのが、ハワイに渡った宣教師の二世であるNathaniel B. Emerson(1839-1915)による『The Unwritten Literature of Hawaii: The Sacred Songs of the Hula』。1909年に刊行されると、たちまち権威のあるスタンダードとして重宝されるようになった文献です。EmersonはKala*kauaの時代に集めた情報をもとに、ダンスや楽器、フラのトレーニングや衣装について具体的に記述しており、今日のフラマスターたちにとっても貴重な情報源。ただし、すべての記述が正しいわけではなく、『Hula-historical perspectives』では、以下のくだりは誤りであろうと指摘しています。「フラは宗教的なサービスであり、古代のハワイ人は個人的に非公式な仕方で、自分たち自身の楽しみのために踊りにふけることはなく……トレーニングされたひとによる、報酬のある行いだった」(pp.11-13)。


参考文献
1)Dorothy BB, Pukui MK, Kelly M: Hula-historical perspective(Pacific Anthropological Records No. 30). Honolulu, Dept. of Anthropology, Bernice P. Bishop Museum, 1980, pp1-2
2)Emerson NB: Unwritten Literature of Hawai‘i-the sacred songs of the hula. Honolulu, Mutual Publishing, 1998
3)Kame‘eleihiwa L: Native Land and Foreign Desires-Pehea La* E Pono Ai? Honolulu, Bishop Museum Press, 1992, pp184-185
4)Osorio JK: Dismembering lahui-a history of the Hawaiian nation to 1887. Honolulu, University of Hawaii Press, 2002, pp193-205
5)Bacchilega C: Legendary Hawai'i and the Politics of Place-Tradition, Translation, and Tourism. Pennsylvania, University of Pennsylvania Press, 2013

 
※オキナ(声門閉鎖音)は「‘」、カハコー(長音記号)は伸ばす音の後ろに「*」をつけています。ハワイ語は、とりあえずローマ字読みすることが可能です。


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隙間のりりー

フラダンサー&ミュージシャンを応援するハワイ語講師。
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